稽首し諸仏、及び法・比丘僧を礼す。
今毘尼法を演べて、正法をして久住せしむ。
優波離を首と為し、及び余身を証する者、
今戒の要義を説いて、諸賢咸く共に聴く。
今深戒を説かんと欲し、持戒を楽う者の為に、
為に能く諷誦する者、諸長老を利益せん。
『四分律』巻1冒頭
まず、この部分であるが、上記リンク先の記事で書いたように、『四分律』の本文ではなくて、その内容を讃歎する偈頌である。つまりは、中国で成立したものなのだろう。ただ、述べている内容は非常に重要で、更には、別の記事にも用意しているのだが、中国禅宗の沙弥得度の作法などで、この偈頌を梵唄として詠唱されることもあった。
その意味では、中国に於ける律蔵への捉え方として、非常に示唆的な内容を持っているのが、この冒頭の偈頌であり、学ぶ意味はあるといえよう。それでは、一体どういう内容なのか?
まず、稽首というのは身体を曲げて頭を下げることで、諸仏と法、比丘僧とあるから三宝への礼拝をし、今、毘尼法(律法)を述べて、正法を久しくこの世界に住持させようとしている。その際、優波離を首と為すというのは、律法を護るという点で、持律第一としての尊者を尊重し、更には、他の者達にも、今ここで戒の要義を説いて、諸賢者もことごとくともに聞くべきであるという。
今、深い戒の意義を説くのは、持戒を願う者のためであり、諷誦するのは、諸長老を利益するためである、としている。
このように、持戒という観点では、優波離尊者への尊崇の念が伴っているのである。更には、戒律をこの世にあらしめる方法として、諷誦が示されているのも重視したい。そういえば、栄西禅師が中国の臨済宗黄竜派・虚庵懐敞禅師の下で、『四分律』を詠唱してきたという述懐をされている(『興禅護国論』)が、意外と律蔵は、その唱えることに重点が置かれているのかもしれない。
そう考えると、『梵網経』でも戒律の諷誦に重きが置かれているが、それを上記の律蔵理解という観点から見ていく必要があると言うことなのだろう。
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