つらつら日暮らし

『緇門警訓』に見る坐禅の説示5(令和4年度臘八摂心短期連載5)

令和4年度臘八摂心5日目である。昨日から、『龍門仏眼遠禅師坐禅銘』を見ているので、続けて見ていきたいと思う。

 禅、何ぞ不坐ならん、坐、何ぞ不禅ならん。
 了得すること是の如くなれば、始めて坐禅と号す。
 坐する者何人ぞ、禅是れ何物ぞ。
 而も之に坐せんと欲せば、仏を用って仏を覓む。
 仏、用覓せずんば、之を覓むるも転た失す。
 坐、我観せず、禅、外術に非ず。
    『緇門警訓』巻上


坐禅というと、どこか一体のものだと思っているが、どうやら、禅と坐とで分ける考えがあったらしい。とはいえ、上記の文章では、それを批判し、むしろ、禅が坐で、坐が禅であるという考えを推し進め、了得すれば「坐禅」になるとしている。

その上で、坐と禅とが一体となった「坐禅」から、続けて「坐する者」が何者で、「禅」とは何者か?と尋ねている。これは、坐とは人が行うべきもので、禅とは、その結果だからであろう。

しかし、上記一説では、坐禅をしようと思うなら、仏を用いて仏を求めるべきだという。これは、或る意味、「丙丁童子来求火」の考えに近い。

つまり、衆生や凡夫から、無理矢理に仏になろうとしても、遠いばかりなのである。よって、仏として、仏を求めていくべきだという。この一節は、かつての分類法を用いるなら、いわゆる本覚門的な発想をしていることになる。

よって、坐とは自分を観じることではなく、禅もまた、自己の外にあるものではないのである。あくまでも、仏が仏の行を行うことに外ならないのである。

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