復た次に、仏の祇洹に在るが如きは、一りの酔婆羅門有りて来たりて仏の所に到り、比丘に作らんことを求む。
仏、阿難に勅して剃頭を与え、法衣を著けしむ。
酔酒、既に醒めて、己身の忽ちに比丘に為ることを驚怪し、即便ち走り去る。
諸もろの比丘、仏に問うに、「何を以てか此の酔婆羅門の比丘に作ることを聴すや」。
仏言わく、「此の婆羅門、無量劫中に初め出家心無し、今、酔うに因るが故に、暫く微心を発す。是の因縁を以ての故に、後に当に出家得道すべし」。
龍樹尊者『大智度論』巻13「釈初品中讃尸羅波羅蜜義第二十三」
以前から、他の文献にも引用されるこの一節を見ながら、非常にありがたい因縁であると拝受していたのだが、冒頭で示したリンク先の通りで、そもそも「酔」の者に具足戒を授けてはならないとなっていたことを思うと、非常に微妙な内容となってくる。しかも、出家だけであれば、沙弥戒を授けることでも成立するけれども、上記の場合は「比丘」になりたいと願い、その希望を叶えたということになっているので、『四分律』との明らかな矛盾点だと思えたのである。
この酔婆羅門の一事についてだが、説話としての方向性を分析してみると、「律」よりは、「出家心(或いは発心)」についての話が中心であることが分かる。しかも、「律」であれば、去ろうとする際に、他の比丘たちが僧団に留めようとしたが、上記の一節では、その様子は見られない。つまり、もう上記に登場する仏陀自身も、本気で比丘にしたわけではなかった可能性があるといえる。
或いは、もう少し本文を見ていくと、弟子である阿難尊者に命じて、その希望者を「剃頭」させ、「法衣(袈裟)」を着けさせたとあるが、もしかすると「具足戒」を授けていないのかもしれない。更には、その酔っていた婆羅門が酒の酔いが覚めた後、「己身の忽ちに比丘に為る」とはあるものの、これはあくまでも「姿」のみであって、実際には授戒していない可能性を考えるべきかもしれない。
そうであれば、形ばかりの比丘で、授戒していないので、先に挙げた『四分律』の本文とは、実は矛盾していないことになる。何故ならば、『四分律』で否定されたのは、「受具足戒」であって、『大智度論』で行われたような比丘のような姿にするという、或る種の戯れは、許容されることになる。
よって、最初こそ、酔婆羅門の説話が、『四分律』と反するのでは?と思っていたのだが、決してそんなことはない可能性が高いことが分かったのであった。
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