つまり、義浄が自著で「訛」としたのは、以下のような事例である。
西方の僧衆、将に食するの時、必ず須らく人人、手足を浄洗し、各おの小床に別踞す、高さ七寸なるべし、方は纔に一尺ばかり。
『南海寄帰伝』巻1「三食坐小床」
このように、西方の僧侶たちは、食事の時に手足を洗ってから、「小床」に個別に坐っていたという。つまりは、椅子に坐って食べていたというのである。だが、中国では以下のように替わったという。
聞くに夫れ、仏法の初めて来たるときは、僧食するに、悉く皆な踞坐す、晋代に至りて、此の事、方訛す。茲より已後、跏坐して而も食する。
同上
上記の通り、大きな床を作り、その上で跏趺坐(坐禅の脚の形)をして食べるようになったというが、これは「方訛」だというから、中国式に改まったものだという。後には、禅宗も僧堂の長連床上で跏趺坐しながら食べたというが、中国式だったということが明らかになったといえよう。
他には、以下の一節もある。
大聖久しく已に涅槃し、法教、訛替す、人多く楽を受け、少かに持する者有り。
同上巻4「四十古徳不為」
そもそも、釈尊が涅槃に入られてから久しく時が過ぎ、後代に於いてはその戒律を持する者が少ないと歎いているのである。後は、以下のような指摘もある。
既に受戒し已れば、室羅末尼羅と名づく〈訳して求寂と為す、言わく涅槃円寂の処を求趣せんと欲す。旧に云わく沙弥とは、言略にして音訛なり、翻じて息慈と作すは、意准ずるも拠無きなり〉。
同上巻3「十九受戒軌則」
この辺は、インドの言葉を漢訳した時の、「訛」の問題である。分かりやすく言えば、「シツラマニラ」を「シャミ」と訳したのは、略されており、音も問題があるとしているのである。
現代となっては、インド仏教自体が新しいものしか存在しないので、義浄と同じことは出来ない。よって、その記録を信じ、それを学ぶことで想像するしかないが、今の自分が知り、実践している作法などを相対化し、その意義を正しく学ぶために必要な手続きである。
今回の連載は以上で終わるけれども、本書の学びは続けてみたい。なお、現代語訳(『現代語訳 南海寄帰内法伝』法蔵館文庫)も近著として刊行されたようだから、学びやすくなったのではないか。
次の連載は、また来月以降に発表したい。
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