ところで、結局「真歇」って何だ?という話になったわけである。「長蘆」はすぐに分かる。それは、清了和尚が住していたのが「長蘆山」だったことから付いた名だ。ここは、時代的にそれほど離れていないと思うが、『禅苑清規』を著した慈覚大師宗賾もいた名刹である。では、「真歇」って何だ?ということなのだが、瑩山紹瑾禅師御提唱『伝光録』を拝読して、疑問は氷解した。同書の第四十七祖章が清了和尚の本則なのだが、以下の一文があった。
師諱は清了。道号を真歇と曰ふ。悟空は禅師号なり。師の母、抱懐襁褓にして寺に入り仏を見て喜び眉睫を動ず。咸く之を異とす。年十八にして法華を講ず。得度して成都の大慈に往き、経論を習ひ大意を領ず。
『伝光録』第47章
・・・道号だったことが判明した。さらに、悟空禅師というのが諡号ということも分かった。ところで、良く、曹洞宗では道号を用いず、一方で臨済宗では使う、というような話があって、実際に曹洞宗では、道元禅師も道号を使った形跡が無く(希玄がそれだという説もあるが、これは道元禅師の「別名」とされる)、永平寺の法燈を維持した寂円派というのがあって、それは派祖の寂円禅師以来、寺号、または山号でもって自らの名に加えていたことを喧伝した論文を見たことがある。
しかし、これは「曹洞宗の伝統」とは言い切れないのかもしれない。なお、元々臨済宗楊岐派の系統に連なる日本達磨宗から転宗した義介禅師は「徹通」という道号を持っている。或いは瑩山禅師は「瑩山」が道号で、名前が「紹瑾」であるが、自称としては「海部紹瑾」や「洞谷紹瑾」とも使うので、地名や山号、寺号との関わりから名乗ったことも考えられる。
こうしてみてみると、なるほど寂円派というのは際立つ気もするが、おそらく単純な話ではない。それは『伝光録』にあるように、清了和尚の「真歇」が道号だからだ。なお、『真州長蘆了和尚劫外録』に収録されている「崇先真歇了禅師塔銘」は「住明州天童山景徳禅寺法弟比丘正覚撰」とあるように、法弟の宏智正覚禅師が「紹興二十六年四月夏安居日」に著されたものである。当銘に「師、諱は清了。道号は真歇」とあるので、道号が真歇であるということは、広く知られていたはずである。
よって、道元禅師や曹洞宗が道号に対して批判的であったというのは、根拠のない話になる。一例として、道元禅師には真字の『正法眼蔵』があって、通称『正法眼蔵三百則』などともいう。同著には、合計300則の公案が収録されているのだが、本則に関連した当事者の来歴として「誰の法を嗣いだか?」、或いは「諡号」などが書かれている。その中に以下の一則がある。
後洞山師虔禅師〈洞山に嗣ぐ、青林と号す〉
204則
この則のみ「号」についての記載があり、「青林と号す」とある。洞山師虔禅師というのは、洞山良价禅師の法嗣であるが、後に洞山に「三世」として入ったことは、『景徳伝灯録』を始め幾つかの灯史が伝える通りである。ところが、この師虔禅師は、先の204則でも「後洞山」とされるように、「洞山」として名前を重ねている。よって、師と同じ名前を使われるのを憚って、「青林」という号を使ったようなのである。道元禅師はわざわざ、そのことを割注にて示してくださった。そうなると、「道号」というのは、時と場合によって使われることだといえるし、今のように各寺院で何十代も世代が重ねてくると、むしろ道号を付けて区別しないと、呼称の区別が出来なくなる。
よって、単純に道号の有無を、1つの基準にして宗派を考えるのではなくて、むしろ必要に応じて付ける場合もあったと柔らかく考えた方が良さそうだ。現に道元禅師に関わる文献だけでも、「真歇清了」「青林師虔」という「道号」を付けた祖師の名が見えるし、これらの人はともに「曹洞宗(洞下)」である。宗派によって区別するのではなく、必要に応じてという話が良いというのは、この背景があってのことである。なお、道元禅師御自身、道号が要らなかったのは、「興聖寺」にしても「永平寺(大仏寺)」にしても、ともに「御開山」だったからである。開山は、少なくとも自分自身が退董されるまでは、誰にも間違えられる心配はなく、道号が要らないのはその通りであろう。
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