或る日、陀羅尼をお唱えする人が来て、示して言うには「他の想いもなく、呪(陀羅尼)をお唱えしながら日を過ごされるというのは、何より良いことでございます。功徳を積めば、さまざまな修行の妨げもなくなり、病も無くなり、寿命も延び、心の苦しみも止むもので、臨終の時にも、混迷しないことでしょう」と。
因みに、或る者が言うには「或る者が、修行に精進されているのですが、この頃はその動きも軽やかで、身体まで若返って見えるほどです」と。
お師匠様がそれを聞いて仰るには「余計な想いもなく、是非の想いも薄くなってきたから、子供になったかのように若く見えるのでしょう。私も70歳を過ぎましたが、その生命力は、18・9歳くらいですよ」と。
『驢鞍橋』上-84、『鈴木正三道人全集』164頁、拙僧ヘタレ訳
これは、面白い話です。ただ、一歩間違うと、以前記事にした【『沙石集』老僧年隠したる事】になってしまいますので、注意が必要です。あの時には、サバ読み過ぎて、ちょっと困ったちゃんになってしまった老僧の話をしましたが、まぁ、今回の鈴木正三は、そういう媚びたところがないので良いんですけどね。
なお、正三は子供のように若く見えるためには、余計な想いが無く、是非の想いが薄くなることが必要だとしていますが、逆に余計な想いばかりが目立ち、是非を決めようとするような人は精神的に老齢なんでしょう。是非善悪を決めることが、大人の条件だといえるのかもしれませんが、我々はその是非善悪を、たいがいは自らの経験のみから決めていく場合が多いように思います。しかし、是非善悪は自分だけではなく、社会的に決まることもあれば、その都度変わったりするものだと柔軟心でもって、生きていくのも一計かもしれません。
無論これは、モラルハザードに寛容であれというのではないですね。もし、モラルの崩壊している方が、その崩壊している様子しか取れないのであれば、それは結局「崩壊している頑固さ」が見えるからです。必要であれば、モラルを持って生き、場合によっては崩壊している状況にも生きることが出来る、これこそが真の柔軟さであります。ここに、自己を優先させることがなければ、ますます仏祖の修行に叶っているということが出来ましょう。
ということで皆さんも、あまり余計なことへ自己の価値観を押し付けることなく、軽やかに生きてみればそれこそが若いということになるかもしれませんぞ。
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