それで、タイトルの通り、これらの文献の評価を見ていきたいと思うのだが、例えば水谷不倒『近世列伝躰小説史(上・下巻)』(春陽堂・1897年)や、栗島山之助『文壇の三偉人』(三国書房・1900年)などでは、基本、中国の文献を翻訳して、仮名文にしたものという評価で採り上げられていた。
・・・つまり、典拠があるということだ。そこで、色々と見てみたが、明治期に『校訂釈迦八相物語』(仏教書院・1915年)を刊行した浜口恵璋師の見解は、かなり参考になるもので、江戸時代の類書発刊の状況を、網羅的に論じている。ただし、中国の文献の典拠についての分析が書かれているわけではないので、この辺は別に調べ直しである。
それで、『釈迦八相物語』を冒頭から読んでいくと、すぐに或ることに気が付いた。以下の一節である。
然れば三十六世の御門、獅子頬王と申したてまつるに、王子四人おはします。第一は浄飯太子、第二は甘露飯太子、第三は白飯太子、第四は斛飯太子と申したてまつる。
『校訂釈迦八相物語』1頁
これは、もしかすると、典拠を決める一節になるのではないか、と思った。理由は、要するに上記一節に見える「王子四人」とは、釈尊の父親世代の兄弟である。浄飯太子が釈尊の父・浄飯王のことである。それで、順番が以上の通りとなっているが、これは正しいのだろうか?調べてみると、以下のような記述が主である。
一には浄飯と名づけ、二には白飯と名づけ、三には斛飯と名づけ、四には甘露飯と名づく。
『起世経』巻10
このように、順番が全く違うのである。なお、一般的な仏典を調べてみると、概ね上記の通りで、『釈迦八相物語』のような並びは、かなり珍しい、というか、典拠は分からないというべき状況になった。そう考えると、水谷氏や栗島氏が何をもって、先のように述べられたのかは、興味を引くものの、不明ということになる。そこで、そもそも「釈迦八相」について調べてみた。すると、用語としては基本、中国以東の論書に出る印象である。例えば、以下の一節が見られる。
釈論に云わく、「諸仏八相成道とは、一には上天、二には下入胎、三には住胎、四には出胎、五には出家、六には成道、七には説法、八には滅度なり」。
吉蔵『弥勒経遊意』
例えば、中国三論宗の吉蔵(549~623)は、以上のような文章を書いているが、引用したと思われる『釈論』とは『釈摩訶衍論』巻7である(ただし、説法が、原典では「転法輪」になるが、大きな違いはない)。そこで、『釈迦八相物語」での「八相」とは、明確にそうだと書いているわけではないが、話の並びから見て『釈摩訶衍論』と同じであることが確認された。
後はこの釈尊伝がどのように活用されたかだが、日本仏教各宗派の場合、釈尊伝はそれぞれの宗旨・教義との関わりが深いため、様々に語られることがあり、異同も大きい。そのためか、後に釈尊伝の構築を考えた場合、以下のような評価がされるようになる。
この著の参考となつたものは『出定笑語』と『釈迦八相物語』と『仏弟子伝』と『釈迦一代記』などであつた。
仏説はまちまちで、その何れを信ずることが出来るかは問題であるが、その経典に現はれたものは、ある程度まで信頼し得る確実性があるやうである。
芳川赳『釈迦及仏徒の女難』(学芸書院・大正10年)
なんだか、不穏当な印象のタイトルを持つ書籍ではあるのだが、その中で、釈尊伝を語る際に、確実性を求める中で、以上の典籍を選ばれた様子が分かる。『出定笑語』は拙ブログで連載している通り、江戸時代末期の国学者・平田篤胤(1776~1843)の講話が元になっているが、篤胤は様々な経典などを、批判的に見つつ論じているので、選ばれたのであろう。
それから、最近釈尊伝を論じているのは、涅槃会が近いためであるが、『釈迦八相物語』では釈尊の入般涅槃をどう描いているのか、概略だけでも見てみよう。『遊行経』など阿含部の涅槃経系では、釈尊が四禅に入られた後で、涅槃に入るけれども、こちらでは摩耶夫人による「不老薬」の投薬があったものの、釈尊には届かず、結果以下の言葉となっている。
不思議なるかな此薬は、双林の台に降り、鶴林樹の枝に止まりて如来の御手に渡らずして、戊申の年二月十五日寅の一天に頭北面西方脇臥にて、遂に涅槃に気を現はし生滅滅已、寂滅為楽の粧ひ、寂光の都に帰らせ給ひける。
『釈迦八相物語』323頁
以上の通り、釈尊自身の側から描かれることはなくて、簡単に第三者から見た様子で涅槃に入られた様子が示された。この後は、釈尊の葬儀についての話になっていくのだが、それはまた別の話となるので、記事はここまでとしておきたい。
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