つらつら日暮らし

五戒と五常の関係について(2)

五戒と五常の関係について】の続きの記事になるのかな?でも、あんまり関係無いかもしれない。以前の記事で、仏教で説く五戒と、儒教で説く五常との関係が仏教者によって説かれた文献を見てみたが、今回もその続きのようになってしまった。実は、儒者側の文献を見たかったのだが、拙僧の拙い調査能力では探せていないためである。

ということで、以下の一節などはどうか。

 儒教に五常とて五つのこころもちあり、仁義礼智信これなり、一に仁といふは、慈悲ありて人をあはれむ心なり、二に義といふは、柔軟にしてひがことなき心なり、三に礼と云は、正直にしてふたごころなき心なり、四に智といふは、憲法にしてあやまりなき心也、五に信と云は、真実にして姧りなき心也、五常ただしき時、しゆくぜんの余慶家にあり、これをそむく時、しゆくあくの余殃身にかかる、此五常を釈教には、五戒と名づく、
 五戒といふは、一には不殺生、二には不偸盗、三には不邪婬、四には不妄語、五には不沽酒とて、五の過をいましむる也、これをしんずる時は、仏神の御めぐみを蒙り、もろもろの難をのがれ、後生にては楽き世界に生れて、身の苦みもなく、世の望もなきを、極楽とはおふなり、此戒をそむく時は、仏神の御あはれみにももれて、中夭災難にあひ、後生にては暗世界に生れて、しんいのほのをにやかれ、愛念の氷にとぢられ、利欲のつづぎにきらるるを地ごくとはいふ也、
    『永平和尚業識図


こちらの文献については、以上の拙Wikiをご覧いただければ良いのだが、「永平和尚」と道元禅師の著作であるかのように命名されているものの、江戸時代の段階で既に、別人の作であることが指摘されている。いわば、道元禅師に仮託された偽撰である。なお、以上の内容は五常と五戒とが同じものだと述べている。

これは、本書の本来の著者自身が懐いていた考えなのだろうと思うし、もし面山瑞方禅師が指摘されるように、本来の著述年代と推定されている1338年が正しいのであれば、中世の仏教者が考えていたものでもあるのだろう。どうも、弘法大師空海に因む真言宗系の文献には、上記の五常・五戒との関係を説く文献が、比較的多めに見られるようだが、その辺の影響なのだろうか?

なお、上記の内容は非常に簡単なものである。特徴なども見られないほどだから、以下は道元禅師の教えとの矛盾を指摘しておきたい。まず、仏教と儒教との関係について、道元禅師は三教一致批判を展開されるので、まずは上記のような考えは持っていないと判断して良い。ただ、それをいうと、以下の一節があるではないか?という指摘があるかもしれない。

人をかがみとす、といふは、鏡を鏡とするなり、自己を鏡とするなり、五行を鏡とするなり、五常を鏡とするなり。
    『正法眼蔵』「古鏡」巻


ただ、この一節はあくまでも世俗の価値観を述べたものなので、仏教者側の見解として肯うことは出来ない。それから、道元禅師は阿弥陀信仰全般に批判的であったので、「極楽」の話をされることも無い。世俗への教化の話をされるとしても、必ず仏教者としての見解を示されるので、やはり本書は別人と見て間違いないようだ。

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