復た三学有り。
学威儀増・学毘尼増・学波羅提木叉増なり。
威儀増とは、一切の威儀戒なり。
毘尼とは、一切の悪法を滅するなり。
波羅提木叉とは、五篇戒なり。
『薩婆多毘尼毘婆沙』巻1
・・・何となくだが、今回考えようとしていることとは違う気がする。だいたい、「毘尼増」を調べたくて探したのに、詳しくは「毘尼」についてのみ示されている。よって、以下の文脈を見ておきたい。
二律、并びに一切の犍度、調部、毘尼増一都べ集め、毘尼蔵と為す。
『四分律』巻54「集法毘尼五百人」
ここからは、二律(比丘律・比丘尼律)と、一切の犍度、そして調部毘尼の他に、更に「毘尼増一」があると理解出来る。そこで、『四分律』巻57以下の「毘尼増一」項の冒頭を見ると、以下の通りとなる。
一時、仏、舎衛国祇桓精舎給孤独食園に在り。時に世尊、諸もろの比丘に告ぐ、「汝等、諦聴し、善く之を思念せよ。若し比丘、相似の文句の遮法毘尼を説けば、此れ比丘をして多くの人に利益を得せしめず、諸もろの苦業を作して以て正法を滅す。若し比丘、文句に隨順して毘尼を違法せざれば、此れ比丘、多くの人を利益するが如し。衆をして苦業を作さしめざれば、正法久住す。是の故に諸もろの比丘、汝等、当に文句に隨順して、違法の毘尼をして増減せしむること勿れ、当に是の如く学すべし」。
『四分律』巻57
このようにあって、毘尼について、遮法毘尼や違法毘尼などに随ってしまうと、比丘にとっては仏道を学ぶ際の利益にならないというので、世尊は、分かりやすく毘尼を説こうという話になっているのである。そして、「毘尼増一」項を見ていくと、例えば、「一義」「二種犯」「二見」「二種毘尼」といったように、数字に因んだ項目を挙げつつ、分かりやすく説いているのである。
そこで、思い出すのは、阿含部の経典になる『増一阿含経』である。こちらにも「増一」という名称が用いられている。では、この「増一」の意味とは何か?
増一阿含とは、法の條貫を比して以て数相次ぐなり。数、十を終とし、其の一をして加えしむ、故に増一と曰うなり。且つ数数皆、増なり、増を以て義と為すなり。
釈道安「増一阿含経序」
結局、「増一」または「増」について指摘しているが、数が十を1つとして、常にそこに1を増すから「増一」といい、或いは、数自体が基本増すので「増」というとしている。要するに、数を扱うことを「増一」或いは「増」というのである。つまり、「毘尼増一」とは、数に因む毘尼(律)を扱うことをいうのである。
そして、『四分律』全60巻の内、57~60巻が「毘尼増一」に該当し、誤って理解されないための数に因んで覚えやすくするために、最後にまとめて説示し直されているのか、とも思う。その内、「毘尼増一」部分のみの連載などを行ってみても面白いかもしれない。
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