お師匠さまが語っていわれるには「この前、三河国(現在の愛知県東部)で、或るお婆さんが、去る長老に質問した『私が死んだ後は、どこに行ってしまうのでしょうか』と。その長老は、ピタッと答えに詰まってしまった。笑止千万のことではないか。今時の長老達は、おおかたこのようなことであっても言うことが出来ない人ばかりのようだ。これは、法の心得方が大いに誤っているからなのだ」と。
そして、お師匠さまが自ら代わって言われるには「自分が好きなところに行くのだ。地獄にも天堂にも、自分の心が引いて行ってくれるのだよ」と。
『驢鞍橋』中-71
この最後に触れられていることを誤解して、「であれば、何をしても好きなところに行ける」と考えると大いに誤ります。この「好きなところ」とは、因果によって定められた「自分が好きな場所」なので、例えば、殺人事件を好きで行った者は、それが報いて地獄に行くでしょうし、人助けが好きで行っていた者は、それが報いて天堂に行くでしょう。しかしながら、それは生前「好きだったこと」が、そのまま働くだけであって、或る意味、生前からずっと「好きなモノは一緒」であると考えられるわけです。
それまでの生前に、散々悪行三昧して、最後にもまた、自分の希望を述べるとは、それはただ罪一等を重ねたことになります。むしろ、それまでの悪行を悔い、心から懺悔すれば、まだ最悪の状況にならず、多少は救われることになるでしょう。正三のいう「自分の心が引いて行ってくれる」とは、上記のように理解しなければなりません。決して、甘い言葉を掛けていてくれるのではないのです。
仏教は道徳ではない、或いはどこまでも許しを与えるものだ、という人がいます。それはそれで間違いではないと思います。しかしながら、やはり、道徳を説き、善悪を弁じる必要もあるでしょう。また、仏教徒である自覚を持ち、自ら衆生の範として生きるべきでありましょう。イデオロギーにまみれた「正義」を振りかざし、誤った生き方をしている者を独断して、攻撃する必要はないのです。ただ、良識に照らして、どう考えても間違っていそうなことについては、「それは違うよ」と言ってあげる必要がありますし、そのような指摘を受けたら心から反省すべきなのです。それが出来ないと「あなた地獄に・・・」って、結局細○先生と同じか???
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