つらつら日暮らし

受戒時の持鉢について(義浄『南海寄帰伝』巻3「十九受戒軌則」の参究・5)

5回目となる連載記事だが、義浄(635~713)による『南海寄帰伝』19番目の項目に「受戒軌則」があり、最近の拙ブログの傾向から、この辺は一度学んでみたいと思っていた。なお、典拠は当方の手元にある江戸時代の版本(皇都書林文昌堂蔵版・永田調兵衛、全4巻・全2冊)を基本に、更に『大正蔵』巻54所収本を参照し、訓読しながら検討してみたい。前回は、出家者に於ける授戒の有無についての内容だが、今回はその続きである。

 法式既に閑ひ、年歳又た満ちて、具戒を受けんと欲せば、師、乃ち其の志意を観て、能く奉持せば、即ち為に六物を弁じ、并に為に余の九人を請すべし。或いは小壇に入れ、或いは大界に居し、或いは自然界、倶に法を秉ることを得る。然るに壇場の内、或いは衆家の褥席を用ゆ、或いは人人自ら坐物を将ちゆ。略ぼ香花を弁じて、営費に在らず。
 其の受戒の者に教えて三遍一一に僧を礼せしむ、或る時は近前して両手をもって足を執る。此の二は皆な是れ聖教礼敬の儀なり。亦た既に礼し已りて、其れに戒を乞ふことを教ゆ。既に三たび乞い已りて、本師、衆に対して為に衣鉢を受く、其の鉢、必ず須く持して以って巡行して普く大衆に呈すべし、如し様に合すれば、大衆人人咸く好鉢と云ふ、如し言わざれば、越法罪を招く。
    『南海寄帰伝』巻3・2丁裏~3丁表、原漢文、段落等は当方で付す


簡単に訳しながら内容を見てみようと思う。まず、「法式既に閑ひ」というのは、沙弥・沙弥尼・式叉摩那として師に仕えながら、後になる比丘の基本的な作法を学ぶことを意味している。そして、年齢が20歳に達したのであれば、具足戒を受けて、比丘・比丘尼になることが可能となる。

その際、師匠は受戒希望者の意志を見て、そして、よく持戒が出来るだろうと判断すれば、この者のために「六物(三衣・鉢盂・坐具・漉水嚢)」を準備し、更には、自分以外の9人の比丘を招き、受戒の準備を行う。

そこで、受戒希望者とともに、小壇(小さい結界で区切られた戒壇)か、或いは、大界・自然界など、新たな比丘を受け入れる羯磨が行える如法の場所にて、授戒を行う。その授戒の道場(戒壇)の中は、敷物を敷き、或いは、集まった比丘達の坐物を用い、更には香華を供えるという。「営費」の意味は良く分からない。受戒実施のための費用に関わるのだろうか?

師は、受戒希望者に教えて、それぞれの僧に対して三回ずつ礼拝することを示す。或いは1人1人に近付いて、その足を自分の両手で掴むようにして礼拝することでも良いとしている。これは、聖教にて説かれる、恭敬礼拝の作法である。

この礼拝が終われば、「請戒(乞戒)」の作法を教える。そこで、三回「請戒」すれば、本師は、受戒希望者のために三衣と鉢盂を授けるという。この鉢盂は、どこに行くにも持っていき、その都度、人々に呈するべきだという。人々が、その鉢盂を見て、作り方などが正しければ、皆が「好鉢」というという。もし、それをいわれなければ、「越法罪」になるという。

ここで、「越法罪」という言葉が出て来たので、今回はそれを学んでみようと思う。漢訳の仏典を見ていくと、律蔵と密教系の2つの意味があることが分かる。それで、今回は前者に関わるのだが、後者については、以下の記述が見られる。

而も法則を越するとは、越とは違越なり。若し伝受して宜しきを失し、専ら擅に、自恣す。即ち是れ放逸して三世諸仏秘密法則を違越し、越法罪を得る。越法罪とは、此の中、いわゆる三昧耶を犯す、四波羅夷中の第三戒なり。
    『大毘盧遮那成仏神変加持経義釈演密鈔』巻10


以上のように、密教では三世諸仏秘密法則を破ることで、越法罪を得るという。それはつまり、三昧耶を犯すこととなり、密教で持するべき四波羅夷中の第三戒を犯すことになるという。重罪である。ところが、律蔵での「越法罪」については、主として義浄訳の文献に見られる語句であり、更には、義浄が積極的に訳出した、根本説一切有部系の律蔵で見られる。

仏言わく、「鉢を得るの苾芻、有つ所の行法、我れ今、当に制すべし。応に二鉢帒を畜すべし。好きは応に長鉢を安じ、好かざれば応に旧鉢を安ずべし。若し乞食の時、応に二鉢を将つべし、乾餅を得れば、長鉢中に著け、若し湿餅を得れば、旧鉢中に著けよ。住処に至り已りて曼荼羅を作し、二鉢を安置すべし。応に旧鉢中に於いて食し已れば、応に先づ長鉢を洗い次いで旧鉢を洗うべし。是の如くして、乃至、曬曝安置、皆な以て長鉢を先と為す。若し内に龕に安じて及び火熏するの時、皆な好処に於いて先づ長鉢を安ず。若し道行するの時、旧鉢を遣りて人に持たせ、長鉢、当に自ら持すべし。人無くして為に擎するは、長鉢を左肩に安在せしめ、旧鉢応に右畔に安んじ自ら持ちて去け。若し鉢を得るの苾芻、此の行法に於いて行に依らざる者は、越法罪を得る」。
    「乞鉢学処第二十二」、『根本説一切有部毘奈耶』巻22


以上の通りである。敢えて、先に挙げた『南海寄帰伝』に近い、鉢盂に関する説示を採り上げてみたのだが、この内容からは、「越法罪」については、他の漢訳律蔵であれば「三十捨堕」に該当することが理解出来よう。このことを、義浄は「三十泥薩祇波逸底迦法」と訳している。つまり、「越法罪」というのは、律蔵の場合はそれほど重大ではないことも分かる。

つまり、『南海寄帰伝』では、鉢盂を持ち歩きながら、その作法などをその都度周囲の人々に確認してもらうことが大事だと述べていることになろう。これは、新規に入ってきた比丘への教育の一端を確認したことを意味している。

この記事を評価して下さった方は、にほんブログ村 哲学ブログ 仏教へにほんブログ村 仏教を1日1回押していただければ幸いです(反応が無い方は[Ctrl]キーを押しながら再度押していただければ幸いです)。
名前:
コメント:

※文字化け等の原因になりますので顔文字の投稿はお控えください。

コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

 

※ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

  • Xでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最近の「仏教・禅宗・曹洞宗」カテゴリーもっと見る

最近の記事
バックナンバー
人気記事