つらつら日暮らし

道元禅師が説く諸仏の加護について

「加護」という言葉がある。これは元々、「加」が、神仏からの働き掛けを意味し、「護」は「衛護」などの意味であるから、諸仏が我々を守ってくれることを「加護」という。良く、道元禅師は密教的な「加持祈祷」は行わなかったとかいわれるが、用語的に「加持」を用いていないからといって、諸仏からの働き掛けまでも否定したわけでは無い。その意味では、「加持祈祷」は行わなかった、というのは早計である。

 仏言、剃頭著袈裟、諸仏所加護。一人出家者、天人所供養。
 あきらかにしりぬ、剃頭著袈裟よりこのかた、一切諸仏に加護せられたてまつるなり。この諸仏の加護によりて、無上菩提の功徳円満すべし。この人をば、天衆・人衆ともに供養するなり。
    『正法眼蔵』「袈裟功徳」巻


この「仏言」は、『大方等大集経』「月蔵分」からの引用であるけれども、意味としては、頭を剃り、袈裟を着ける者は、諸仏が加護をしてくれる、一人出家した者がいれば、天人が供養してくれる、ということになる。そこで、この内容を更に道元禅師が示された一節が、「あきらかにしりぬ」以降となる。そこを詳しく見ていくと、道元禅師は『大集経』の見解を受けつつ、一度でも頭を剃り、袈裟を着けたのであれば(原文に「このかた」とあるので、「継続的に」と解釈される)、それ以来、一切の諸仏に加護をしてもらえる、と信じられていた。

そして、諸仏の加護によって、無上菩提の功徳が円満するという。円満ということは、文字通り、欠けるところ無く満ちたことを意味するので、その頭を剃り、袈裟を着けた当人が、無上菩提を成就したことを意味する。無上菩提の成就は、以下のような見解もある。

しかあればすなはち、仏祖正伝の作袈裟の法によりて作法すべし。ひとりこれ正伝なるがゆえに、凡聖・人天・龍神、みなひさしく証知しきたれるところなり。この法の流布にむまれあひて、ひとたび袈裟を身体におほひ、刹那・須臾も受持せん、すなはちこれ決定成無上菩提の護身符子ならん。一句・一偈を身心にそめん、長劫光明の種子として、つひに無上菩提にいたる。
    同上


仏祖正伝の袈裟の製作法に従って作られれば、その正伝なる袈裟の功徳によって、仏祖以外のあらゆる存在が、久しくその功徳を明らかにし、知っていたのである。この袈裟製作法が流布している国に生まれ、袈裟に逢い、その袈裟をひとたびでも身体に覆うことが出来、わずかな時間でも受持することが出来たならば、それが、無上菩提の「護身符子」となるのである。一句・一偈でも身心に染めれば、それもまた、長い時間にわたって、光明の種子となってくれ、そして、ついに、我々は無上菩提に至るという。

要するに、袈裟自体が、我々修行者にとっての「護符(お守り)」になってくれるわけだが、その内容として、諸仏の「加護」があるといえよう。そして、ここを転じて考えれば、我々自身が無上菩提を成就することを願っているとするならば、その時、頭を剃り、袈裟を身に付けること、それそのものが、「諸仏の加護を願う行為」と見なすことが可能で、これを一般的に「加持祈祷」というわけだから、密教的な加持祈祷をしていない、というのはなるほど、儀礼的な点でそうなのかもしれないが、加持祈祷をしていない、ワケではないのである。その辺の混同は許されてはいない。

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