そこで、今日は曹洞宗の太祖瑩山紹瑾禅師(1264~1325)の弟子であったが、最終的に瑩山禅師の弟子である明峰素哲禅師(1277~1350)の法嗣になった大智禅師(1290~1366)の偈頌から、「立春」に関する漢詩を見て行きたい。
立春
暖日紅霞碧雲を襯とす。無辺の光景一時新たなり。
大功は宰らず東皇の化。梅華に分付して春を管領せしむ。
『大智禅師偈頌』
古来より、大智禅師の偈頌というのは、曹洞宗の宗乗が反映されていて、それを能く読み込まねばならないといったような考え方があった。
思うに大智偈頌は、感受性豊かな若者の情操陶冶と、知的思索を昂めるためへの好個の教材であり、はたまた道元禅の牙城に迫る絶好の門径でもある。
飯田利行先生『大智偈頌訳』国書刊行会、2頁
飯田先生は、大智偈頌について「珠玉の名句」であるとし、「五山文学の白眉」と評された。その上で、この偈頌を考えていくと、だいたい以下のような感じだろうか(なお、訳には承応3年[1654]刊行本を底本にした『続曹洞宗全書』「注解二」所収の『大智禅師偈頌鈔』[万安英種禅師撰とも]を参照した)。
立春を迎え春の暖かなる太陽は、真っ赤な霞を上衣とし、緑色の雲を下衣としている。
限りない広さの光景は、立春を機会に全てが新たになる。
無功の功である大いなる功は、春の神の教化までを手伝うことはない。
梅華にそれを頼んで、春を管領させるのである。
曹洞宗では、道元禅師が様々の機会で本師天童如浄禅師の好語「雪裏の梅華」を採り上げていることに見るが如く、梅華を非常に重んじており、優曇華などと同じ位相で論じられた。また、特に春に開く華ということもあって、開くということ自体に宗教的な意味を求めることもある。上記訳文では、梅華が春を管領しているという解釈をしたけれども、道元禅師の御垂示を受けたものである。
いはゆるいまの春は、画図の春なり、入画図のゆえに。これ余外の力量をとぶらはず、ただ梅華をして春をつかはしむるゆえに、画にいれ、木にいるるなり、善巧方便なり。
『正法眼蔵』「梅華」巻
これは、天童如浄禅師の「本来の面目生死無し、春は梅華に在りて画図に入る」という偈を道元禅師が提唱されたものである。この画図に入るというのは、如浄禅師がこの春について能く画図されたことを示された。つまり如浄禅師は自己に於いて現象する現象を、春として納受され、更にその現象が現象する機能を梅華に託した。
梅華が、ただの法として、或る意味「非情」に生死を始めとする一切の相対的な価値のないところで論じられがちなのに対して、今ここでありありとある現象は、法は法でありながら、しかし、事象としての暖かさを持っている。その質感を、入画図というのであり、素晴らしい功徳・方便を梅華に見るべきだとされた。
春を迎え、一切が動き出すというその日、しかしそのような可動をもたらしたのが梅華であり、結局のところ、それは仏法がただの法としてではなくて、今ここにありありとしている事象に直観されねばならない。我々が直観すれば、それは梅華を媒介に、その梅華の上で成立している。よって、一切の事象を正しく開く時に、梅華は優曇華であり、釈尊の法の一切を開示し、衆生を導く機能を遺憾なく発揮される。
などなど、大智禅師の教えに基づいて、今日の立春という日の意義を学んでみた。
#仏教
最近の「仏教・禅宗・曹洞宗」カテゴリーもっと見る
最近の記事
カテゴリー
バックナンバー
2016年
人気記事