毎歳仲春、菩薩戒会を建て、其の化を被むる者、常に五千大衆に満つ。
『四明尊者教行録』巻7「四明法智尊者実録」
こちらは、中国天台宗で14祖に位置付けられる四明知礼尊者(960~1028)の行実について論じられたものだが、このように「菩薩戒会」を実施しておられたという。なお、その時期は毎年の仲春(旧暦2月)であったというが、何だろう?知礼尊者はこの時に授戒会を行う意味を感じていたのだろうか。
例えば、釈尊涅槃会などもあるから、それに因むものか?或いは、日本でいうところの彼岸会も、旧暦では2月となるから、その辺の関係もあるのだろうか?良く分からない。なお、知礼尊者の場合、その授戒による教化を被った者は、常に5000人に達していたというので、かなり大がかりな授戒会であったことを想像させる。
ところで、以下の記述も見られる。
義天遠く来りて法を求む。為に大要を提し、菩薩戒を授く。会、幾んど万に満つ。増戒・度僧、六十会に及ぶ。
『仏祖統紀』巻29「律師元照」項
このように、北宋代の霊芝元照尊者(1048~1116)にもまた、菩薩戒を授けており、その法会にもまた、10000人近い人々が受けに来たという。そのような大きな授戒会や度僧(得度式)を60回は行っていると示しているのである。
つまり、両方とも菩薩戒を授ける法会が実施され、それが人気を博していることを示すものなのである。ところで、問題になるのは、この時の法会で授けていた戒本である。この元照尊者が受けた菩薩戒については、以下の記録がある。
元豊元年三月、杭州の雷峯慧才法師、靈芝元照と道俗千人の為に菩薩戒を授く。羯磨の際、観音像光を放ち、講堂大明なり。
『仏祖統紀』巻45
こちらは、元豊元年とあるので1078年になるが、元照尊者は出家者・在家者1000人とともに菩薩戒を受けたという。この時、観音像が光を放ち、授戒会の道場であった講堂が明るくなるという奇瑞が起きたという。しかし、この一節のみでは、「菩薩戒」の戒本が分からない。
ただし、同じ元照尊者の『授大乗菩薩戒儀』(『芝苑遺編』巻中)では、「第八秉法授戒」で「三聚浄戒」を授けており、続く「第九説相示誡」に於いては「十重四十八軽戒」の戒相を説いているけれども、これは「講戒」ということだろうか。それにしても、やはり重要なのは「三聚浄戒」であったということか。
理由として、「十重四十八軽戒」では、在家信者にはその全ての持戒が厳しい。よって、まずは「三聚浄戒」のみを授け、その他の戒は、必要やその立場などに応じて授けたのではなかろうか。
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