爾の時、阿闍世王、即ち坐より起ちて、頭面もて仏足を礼し、仏に白して言わく、「唯だ願わくは世尊、我が悔過を受けよ。我、狂愚痴冥無識為り、我が父摩竭瓶沙王、法を以て治化し、偏枉有ること無し。而も我れ五欲に迷惑し、実に父王を害す。唯だ願わくは世尊、哀慈愍を加えて、我が悔過を受けよ」。
仏、王に告げて曰わく、「汝、愚冥無識なるも、但だ自ら悔過す、汝、五欲に迷いて乃ち父王を害す。今、賢聖法中に於いて能く悔過すれば、即ち自ら饒益す。吾れ汝を愍むが故に、汝の悔過を受く」。
爾の時、阿闍世王、世尊の足を礼し已りて、還た一面に坐す。
仏、為に示教利喜を説法す。
王、仏の教えを聞き已りて、即ち仏に白して言く、「我れ今、仏に帰依す、法に帰依す、僧に帰依す。我れを正法中の優婆塞と為るを聴せ、自今已後、形寿を尽くして、殺さず、盗まず、婬せず、欺かず、飲酒せず。唯だ願わくは世尊、及び諸もろの大衆、明らかに我が請を受けよ」。
爾の時、世尊、黙然として許可す。
時に、王、仏の黙然として請を受けるのを見已りて、即ち起ちて仏を礼し、遶三匝して還る。
其の去りて未だ久しからざるに、仏、諸もろの比丘に告げて言わく、「此の阿闍世王の過罪損減す、已に重咎を抜く。若し阿闍世王、父を殺さざれば、即ち当に此の坐上にて法眼浄を得るべし。阿闍世王、今、自ら悔過し、罪咎の損減し、已に重咎を抜く」。
『沙門果経』、『長阿含経』巻17、訓読は当方
阿闍世王とは、古代インドのマガダ国の王である。父のビンビサーラ王を殺し、母を幽閉して王位について、自らのマガダ国を、当時のインドで第一の強国にしたとされる。しかし、後年には釈尊の教えによって仏教に帰依し、むしろ、熱心な保護者となったとされる。そこで、その阿闍世王に於ける悔過(懺悔)について説いたのが、上記の一節である。
なお、阿闍世王は釈尊の教えを聞きながら、自らの罪深さを知ったとされる。そのため、上記の通り、悔過を願い出たのである。つまり、釈尊を前に、自らの罪を発露したのである。なお、阿闍世王は、釈尊の教えから、自らの愚かな行いについて、「五欲に迷惑」した結果だとしている。なお、この「迷惑」とは、日本語のそれとして理解してはならず、漢語としては「迷い」のことである。
また、五欲とは、色欲・声欲・香欲・味欲・触欲、という「五境(五塵)」に対する欲を意味し、しかも、その自己自身に気付いていないこと、それが五欲に迷惑することである。しかし、阿闍世王は、自らが五欲とそれによって起きる現象に対し、勘違いしていたことに気付いた。そのため、自らの愚かな行い、特に、父を殺害したことへの後悔の念が起き、悔過に至ったのである。
釈尊は、阿闍世王の悔過を受け入れ、特に、自ら望んで悔過したのであれば、自分自身を仏法に於いて利益をもたらすと述べたのである。そして、「示教利喜」したのだが、これは、相手の心をほぐすための説示を指す。そうしたところ、阿闍世王は、釈尊に対し、三宝への帰依と、優婆塞になることと、在家五戒を守ると宣言し、これもまた、釈尊とその弟子達によって受け入れられたのである。
なお、仏教では、同意や許可を意味するのは、「黙然」である。阿闍世王は、釈尊が黙然した様子を見て、自らの願いが聞き届けられたことを知り、礼拝して去って行ったのである。
その去る様子を見ながら釈尊は、阿闍世王は罪科がかなり減ったと述べ、重い咎(殺人を意味するのだろう)が抜け去ったという。懺悔によって、従来の重い罪は軽くなり、更に滅罪になったのである。この経典は、その悔過(懺悔)の功徳を説いたのである。
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