彼岸
うつけたる小僧、用さきより帰りきて、「御新造さん、私は今日はじめて、彼岸と云ふものゝ姿を見ました」。
新「何、お彼岸の姿をみたとへ、ヘイ、どんな形をして居ました」。
小「ヘイ、いたち其のまゝでござりました」。
新「どうしてお彼岸と云ふことが知れました」。
小「ハイ、今日西原の畑中を通りますと、ひとりの百姓衆が、いたちに似たやうなけものを見つけ、棒を以つて打ち殺さんとしますると、ひとりの百姓衆が、『これ彼岸じや、殺してはいかん、彼岸じやよ、彼岸じやよ』と申しました。これではじめて彼岸の姿を見た」と申しました、と云ふた。
年期小僧与太郎『大笑小僧百話』(大学館・明治39年)87~88頁
これは、本の題名から分かる通り、仏教の寺院で修行している修行僧の様々な笑い話を集めたものである。日本の昔話では、一定量ではあるが、修行僧(小僧)に関わるものが見えるが、類話は明治時代になっても需要があったということなのだろう。
さて、上記内容であるが、大体以下のような内容であった。まず、或る用件から帰ってきた小僧さんが、御新造さんに対して、「今日初めて、彼岸を見ました」と告げたという。彼岸については、いうまでもなく、具体的に見られる形をしていないので、御新造さんは「どんな形でしたか?」と尋ねるのだが、小僧さんの答えは、畑でイタチらしきものを打ち殺そうとしていた百姓衆の中で、「彼岸だから殺してはいかん」と申した者がいたそうで、そのイタチらしき生き物を「彼岸」だと思ったと・・・
まぁ、笑い話であるから、このようなものだったのだろう。
もちろん、この百姓の中で、「彼岸じやよ」と言っていた理由は、彼岸会中だから、善行に励むべきであるということで、不殺生を説いたのであった。確かに、彼岸会中は在家であれば五戒くらいは護るべきなのだろう。
問題は、これをイタチの名前だと勘違いした小僧の方である。とはいえ、世界には似たような話が幾らでもある。それこそ、「カンガルー」に関する俗説(従来、カンガルーの意味は「分からない」ということだとされたが、今は「跳ぶもの」という意味だとされる)などもそうであろう。
しかし、この小僧に対する御新造さんのコメントが欲しいところであった。
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tenjin95
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