つらつら日暮らし

戒と波羅蜜の関係について

少し、興味深い文脈を見出したので、内容を読み解いてみたい。

 善男子、
 戒の非波羅蜜有り、
 波羅蜜の非戒有り、
 戒有り波羅蜜有り、
 非禁戒・非波羅蜜有り。
 是れ戒の非波羅蜜は、いわゆる声聞・辟支仏戒なり。
 是れ波羅蜜の是の戒に非ざるは、いわゆる檀波羅蜜なり。
 是れ戒・是れ波羅蜜なるは、昔、菩薩の瞿陀身を受ける時が如し、諸虫獸及び諸蟻子の唼食する所、身を傾動せず、悪心を生ぜず、亦た仙人の衆生と為るが如くの故に、十二年中青雀の頂なる処も、起たず動ぜず。
 非戒・非波羅蜜なるは、世俗の施の如し。
    『優婆塞戒経』巻6「尸波羅蜜品第二十三」


大乗仏教に於ける「戒波羅蜜(尸羅波羅蜜)」があるけれども、その「戒」と「波羅蜜」との関係を論じたのが、上記の一節である。それはつまり、以下の4つとなる。

戒であり波羅蜜ではない。
波羅蜜であり戒ではない。
戒であり波羅蜜である。
戒でも波羅蜜でもない。


そこで、これらを具体的な修行などに当て嵌めてみると、以下のようになるそうである。

戒であり波羅蜜ではない ⇒ 声聞・辟支仏戒
波羅蜜であり戒ではない ⇒ 檀波羅蜜(布施波羅蜜)
戒であり波羅蜜である ⇒ 釈尊の前生譚で護生した話
戒でも波羅蜜でもない ⇒ 世俗に於ける布施行


ここで、「波羅蜜」というのは、大乗仏教に於ける「修行の完成」を意味する言葉だが、その中で、「戒」を考える際に、大乗仏教的な理念に契うかどうかが問われたことを意味していよう。しかし、よく分からないのが、波羅蜜でありながら、戒では無いという時に、何故「檀波羅蜜」なのか?が分からない。

更には、「戒でも波羅蜜でもない」状態について、「世俗に於ける布施行」を出していることからも、この経典で、布施と持戒とを強く関連させていることが分かるが、それは『優婆塞戒経』という本経の位置付けに関わっていると見るべきであろう。つまりは、世俗に於ける仏教者にとっての経典である。

そのため、このように書かれているのかとも思うが、本経典を読んでみても、実際にはよく分からない。

ところで、個人的に気になるのは、「辟支仏戒」という表現である。「独覚戒」や「縁覚戒」という戒体系が存在するのだろうか?例えば、菩薩戒が唱えられ始めてから、それまでの『律蔵』が声聞戒として位置付けられた。だが、「辟支仏戒(及びこれに類する表現)」は全く見たことが無い。今回、『優婆塞戒経』を読んでいて、なるほどと気付いたほどだ

そして、幾つかの大乗仏典に、「辟支仏戒(及びこれに類する表現)」について関係する文脈が見られることが分かったので、それはまた別の機会に採り上げてみたい。

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