そこで、達磨忌を実施していなかった理由として、作法として一般化していなかった可能性を指摘しておきたい。確かに、道元禅師と時代的に近い虚堂智愚禅師(1185~1269)の『虚堂和尚語録』には、「施主捨田建達磨忌」と「達磨初忌拈香」とがある。ただし、道元禅師の時代に編まれていた『禅苑清規』と『入衆日用』には達磨忌を載せていない。だが、1263年に編まれた『入衆須知』には「祖忌」項が入り、「達磨忌十月初五、伝灯に出づ」とある。
・・・あれ?達磨尊者の忌日について、『伝灯(景徳伝灯録)』にあるとしている。
化縁を以て已に畢り、伝法して人を得る。遂に復た之を救わずして、端居して而も逝く。即ち後魏の孝明帝、太和十九年丙辰歳の十月五日なり。
『景徳伝灯録』巻3「菩提達磨尊者」章
以上の通り、確かに日付が書かれている。なお、禅宗系の史伝としては、後魏(北魏)の第8代皇帝・孝明帝(生没年は510~528年)の時代だったとしているが、ここは微妙である。年号として、「太和十九年」だとするが、これは495年であるという。あれ?合わない?そのため、『景徳伝灯録』では、以下の註釈が見られる。
続法記に依らば、則ち十月五日、乃ち孝荘帝の永安元年、即ち梁の大通二年戊申歳なり。其の年、即ち明帝の武泰元年なり。二月に明帝崩じ、四月に荘帝即位し、改元を建義す。九月に至りて又た永安に改むるなり。後に云く、汝が主、已に厭世す。謂わく是の歳、明帝崩ずるなり。
伝灯に拠りて云わく、丙辰歳、即ち東魏の文帝の大統二年、西魏の静帝の天平三年、梁の大同二年、厭世の説と全乖なり。又た太和十九年、乃ち後魏の文帝の時、即ち南斉の明帝、建武二年乙亥歳なり。殊に相い遼邈なるのみ。
同上
そう。こちらの記載の通り、太和19年について北魏で考えれば、孝明帝ではなくて、孝文帝(467~499)なのである。ということで、この記述の影響だが、『聯灯会要』巻2では、皇帝の名前などを記さずにただ年月日が「祖、後魏太和十九年、丙辰歳の十月初五日に於いて、端坐して而も逝く」とあって、禅宗灯史の見解として受け継がれたことが分かる。
更に、以下の記述もある。
太和十九年丙辰歳の十月五日に至りて、端居して而も逝く。
『勅修百丈清規』巻2「達磨忌」項
全く同じか。ということで、禅宗の公式と言って良い見解としては、太和19年(495)10月5日に遷化したということになる。そして、葬られたのは「熊耳山」であるが、そこから抜け出てインドに帰ろうとして、パミールで宋雲に遭遇したという話がある。だが、道元禅師はそれを否定される。
また、初祖は西帰するといふ、これ非なりと参学するなり。宋雲が所見、かならずしも実なるべからず。宋雲、いかでか祖師の去就をみん。ただ、祖師帰寂ののち、熊耳山にをさめたてまつりぬるとならひしるを、正学とするなり。
『正法眼蔵』「葛藤」巻
以上の通りだが、中国禅宗で成立した灯史がおしなべて宋雲との邂逅を扱うことを考えれば、道元禅師の以上の所見はかなり異質ではある。ただ、後の『勅修百丈清規』では、熊耳山の一件で話が終わっている。それも含めて、達磨尊者の伝記には不明な箇所が多い。それをどのように考えるかは、達磨尊者をどのように位置付けるかも含めて検討されるべきであろう。
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