仏言わく、善哉善哉、優波離よ、至心諦聴せよ。善思、之を念い、当に汝の為に説くべし。優波離よ、
声聞戒の因縁は異なれり、菩薩戒の因縁は異なれり。
声聞戒の心は異なれり、菩薩戒の心は異なれり。
声聞戒の荘厳は異なれり、菩薩戒の荘厳は異なれり。
声聞戒の方便は異なれり、菩薩戒の方便は異なれり。
優波離よ、
声聞戒の浄は、菩薩戒の浄に非ず。
菩薩戒の浄は、声聞戒の浄に非ず。
声聞の人、乃至、一念に有を求めざれば、声聞戒の浄と名づく。
菩薩若し有を求めざる者は、大破戒と名づけ、不浄戒と名づく。
声聞、有を求むれば、是れを破戒と名づけ、不浄戒と名づく。
優波離よ、
菩薩摩訶薩、無量劫に於いて常に処、有中、心に悔を生ぜざれば、菩薩戒の浄と名づけ、声聞戒の浄に非ず。是の義を以ての故に、優波離よ、汝、応に宣説すべし、
声聞戒は急、菩薩戒は緩。
声聞戒は塞、菩薩戒は開。
声聞戒中に応に因縁を説くべし、菩薩戒中に則ち応に説かざるべし。
優波離よ、
菩薩の人、衆生の心に随い、声聞に非ざるなり。
是の故に、
菩薩戒に於いて小緩、声聞は護急。
優波離よ、
菩薩若し、晨朝に戒を犯し、猶お応に阿耨多羅三藐三菩提を念ずるが故に、自ら罪過を知る。昼夜の三時、皆な応に是の如くなれば、是れを菩薩戒と名づく。
優波離よ、
菩薩、若し時時に犯しても、破戒と名づけず。声聞、若し時時に犯せば、是れを破戒と名づけ、是れを失戒と名づけ、是れを沙門の道果を得ずと名づく。何を以ての故に、声聞の人、為に煩悩を壊して懃行精進し、応に毀犯せず。
優波離よ、
菩薩若し恒河沙等の劫に於いて五欲の楽を受けても、亦た菩薩の禁戒を失せず、破戒と名づけず、失戒と名づけず、菩提の果を得ずと名づけず。
『菩薩善戒経』巻1「菩薩地序品第一」
それで、前後を含めて引用して分かったのだが、やはり延寿が引いた一節は、ここの鍵になる文脈だということが分かる。よって、読み解いてみたい。
・声聞戒は急、菩薩戒は緩。
まずは最初の法だが、急と緩というのは対義語で、今でも野球の良い投手の投球術として、「緩急自在」なんて評価するが、要するに、急ぐということとゆっくりということである。それが何故ここに用いられているかというと、結局、声聞戒というのはこの人生のみ関わるもので「急」となり、菩薩戒とはこの人生のみならず生生世世に関わるもので「緩」となる。これは、その違いを表現しているものと思われる。
或いは、持戒・破戒の評価について、その判断が急ぎか、ゆっくりかの違いもあるのかもしれないが、詳細は不明。
・声聞戒は塞、菩薩戒は開。
こちらも、「塞」と「開」は対義語である。前者はふさぐことを意味し、後者はひらくことを意味する。だが、ここでは、「開遮」と同じ意味で用いられている。つまり、「開」はゆるす、「遮」はゆるさず、の意味である。よって、「塞」というのはゆるさず、「開」はゆるすの意味である。
よって、菩薩戒は「開」を基本とした体系であるため、より「塞」の基準が厳しい声聞戒よりも、柔軟に護持されることを意味している。だからこそ、「菩薩の人、衆生の心に随い、声聞に非ざるなり。是の故に、菩薩戒に於いて小緩、声聞は護急」と締め括られている。要するに、菩薩は衆生のあり方に随って、守り方が緩く、声聞戒の場合には、持戒の基準が厳しいため、柔軟ではないといっているのである。
本経自体が、菩薩戒の功徳を説くものであるから、当然にその良さを示すものではある。ただし、このような良さは、当然に菩薩僧である我々には知られておいて良いものであろう。
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