つらつら日暮らし

「雑種文化論」と日本仏教での盂蘭盆会について

以前読んだ加藤周一氏の著作の中には、「雑種文化論」というのがある(今回参照したのは、岩波現代文庫『私にとっての二〇世紀』。特にことわり無い場合、頁数は同著)。これは、様々な人種や国家の領域に仮託されて語られる「文化」が、実は他の領域の文化との混じり合いで成立しているという話である。日本であればどこか、仏教や儒教などを「外来物」と見なし、その上で「純粋」なる「神道」などを正統なものと見なすような観念があるが、それは意味が無いというのが、加藤氏の意見である。一方で、外来物への妄信も止める。その意味では、ナショナリズムと外国崇拝という両方を否定するということである。

拙僧つらつら鑑みるに、今の「日本仏教批判」というのも、この両方からの突き上げがあるように思う。ナショナリストからは「所詮は外来物」と見なすことで不純性を説き、外国崇拝者からは、日本仏教は南方仏教などに比べて仏教とはいえないなどという。しかし、加藤氏の見解からすれば、この両方ともに、「純化」を目指す精神的運動であり、そして無理に純化しようとすると「ただ損害が生じるだけ」(127頁)とされる。そして、以下の一節は拙僧も思うところがある。

外国を知っていれば日本がナンバーワンとかなんとかいう幻想は生じようがない。私はそのときにかぎらず、戦後、外国で暮らしている間は日本で起こったことはよくはわからないわけですから、ずいぶんマイナスの面があるのだけれども、それにもかかわらず外国で暮らした経験というのは役に立ったと自分で思うことの一つは、日本のものは何もかも悪いという悲観主義には陥らないということです。外国のものも弱点はたくさんあるから、相対的な問題で日本式の伝統は全部悪いという考えは克服できた。
    加藤氏前掲同著、126頁


拙僧は海外留学経験があるわけではなく、仕事や旅行などで数回海外に行ったことがある程度だが、どうしても現地の宗教的な事象に興味が行く。結果、各地にある仏教寺院などを参拝するわけだが、実際にそれを見に行くと、日本でいわれているような「幻想」とはかけ離れた「現実」があるように思う。

以前にモンゴルの仏教寺院で、いわゆる「施食会」を見たことがあった。その時、どうしても「法要は真面目に取り組むべきものだ」と思っている我々からすれば「あり得ない」光景が目の前に広がっていた。全ての僧侶が、多くの歳を取っているわけではない。非常に若い見習い僧も沢山いるわけだが、そういう見習いは、もう好き勝手に私語をし、笑っている。姿勢もグダーッとしていて、真面目に行っている様子は全く見えない。そして、何かを合図に太鼓や鐘を叩いてはいるが、それも別に何てこともなくて、正直言えば「下手くそ」。

でも、法要自体は成立している。もし、真面目な雰囲気が良いとばかり思っている人なら、もうモンゴル仏教寺院の法要は見たくないと思うかも知れない。しかし、現地の人はそれで良いようで、その時にも妊婦さんが熱心に礼拝をして、一定の宗教的サービスを受けて帰って行った。ここからすれば、僧侶が真面目かどうかが問題なのではなく、結局僧侶だから帰依をし、布施をしているという事実があるということだ。その意味では、日本で僧侶の素質を問うような無礼な檀信徒というのは、「信仰心がない」のだと思う。

或いは、宗教者はストイックであれ、という観念自体が、特定の宗教観にもとづく独断でしかないのかもしれない。拙僧は、以前から、明治時代以降の仏教や宗教関係の研究をしていて、それを知った(拙僧は宗教はお金がかからないべきだという観念や、ストイックであれという独断は、明治期以降に日本に来たプロテスタントの影響だと思っている)けれども、先の加藤氏の見解を引けば、結局海外の仏教は良く、日本の仏教はダメだというような人は、本当の意味で「海外」を知らないのだと思うし、ペシミストなのだろう。

そして、今の日本仏教は確かに、インドで釈尊が説いたものとは違うかもしれないけど、それはそれで「雑種文化」として肯定されるべきではないかと思っているのである。純粋なモノが宗教だという幻想も、結局は「真善美」のイデアを精神的根拠とする思考の影響に過ぎないかも知れない。何故ならば、雑種を否定するとなると純化しかないが、先にも指摘したように、純化というのは多くの損害を招く。既に拙ブログでは何度か言ったが、もし先祖供養に「仏さま」を見て、それで納得している檀信徒の方がいたとして、その方に原理主義者が「これは本当の仏教ではないですよ」という者がいたとすれば、拙僧は全力でその者を排除するだろう。この主義者の振る舞いこそ、「損害」である。そして、方法論の問題ではなくて、安寧が問題だとすれば、先祖供養に仏教を見て、何が悪いというのか?或いはそれで、今の日本仏教寺院や、僧侶が潤ったとして、それで何が悪いというのか?

西洋崇拝者はそうするし(引用者註:日本の国語を英語にしたがること)、国粋主義者は西洋の様相を捨てようとする。どちらも第一に非現実的、第二に思想として幼稚かつ有害です。唯一の解決方法の第一歩は雑種文化を認めることです。
    加藤氏前掲同著、127頁


今あるものというのは、必要があって成立しているものだ。それがどれほどに「理念」からかけ離れていても、それが事実だ。であるとすれば、「理念」の方を変えていくべきではないか?雑種文化の承認とは、その第一歩になるという。純粋、正統、そういう「綺麗」なものに人は憧れるのかもしれないが、しかし、かつて日本の仏教者は草木国土悉皆成仏であるといった。普段見慣れた光景をまず認め、そこに「理」を見出したのである。理のために普段の光景を否定するのではない、それもまた、日本に馴染む発想であると思う。

それこそ、今まさに一部地域(国内の大部分は8月の実施である)で行われている「お盆(盂蘭盆会)」も、インド・中国・中央アジア・日本と各地の文化や習俗が入り交じって出来た「雑種」そのものでもある。加藤氏も指摘するように、「雑種は、その言葉からしてあまりいいイメージではない」(127頁)とはいうが、しかし、純粋や純化を仮構して悦に入るというのもどうにも異常だ。そして、それに憧れる者は包容力がないものだ。

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