『沙石集』は全10巻ですが、今回紹介する第9巻は、嫉妬深い人・嫉妬が無い人、他にも愚かな人や因果の道理を無視して好き勝手するような者などを事例として挙げながら、我々人間の心にある闇、或いは逆に爽やかな部分を無住が指摘しています。具体的には以下のような内容があります。今回は「二五 先世房の事」を使ってみたいと思います。掻い摘んでお話しをしますと、これは、自分に起きることを全て「前世の事」とのみ嘆じて、喜怒哀楽の感情を見せなかった者のお話しから転じて、無住が過去現在未来に渡る因果の話などをまとめた一節です。
韋提希夫人が、阿闍世王という悪子を持ってしまったため、それを縁にして娑婆世界を疎み、浄土を願って極楽に往生したように、厭離穢土の頼りとして、欣求浄土の仲立ちとし、怨む心が無いように、真実の知識とするならば、仲の良くない妻子や、仲間達というのは、その得するところが多いのである。
そうであれば、今世にも来世にも、心を悩ましたり、身に煩いとなるようなことが無いのなら、かえって心には叶わない対象ということになろう。
また、会うとき愛情が深ければ、別れるときには必ず悲しみが痛切なものとなろう。会うとき、想いが薄ければ、別れるときに歎きが少ない。そうであるのを、人の習いとして、得を愛し、損を憎み、(真実の)得失を弁えないというのは、返す返すも愚かなことである。
拙僧ヘタレ訳
上記訳文は短いものですが、しかし、この一節に、本当に多くの知識の背景が隠されています。特に、「韋提希夫人(いだいけ)」と、その子供である「阿闍世王(あじゃせおう)」との関係については、様々な仏典のテーマになるほどですけれども、今回ここで、無住が採り上げたのは、『浄土三部経』の1つである『観無量寿経』です。この経典は、テーマが如何にして「無量寿=阿弥陀仏」及び、その在す極楽浄土を「観るか」という話になりますが、世尊が韋提希夫人に対して、それを語るという形になっているのです。
何故、韋提希夫人が聞き手になったかといえば、以下のような事情があるためです。
その時、王舎大城にひとりの太子あり、阿闍世と名づく。調達(提婆達多)悪友の教に随順して、父の王頻婆娑羅を収執し、幽閉して七重の室内に置き、もろもろの群臣を制して、ひとりも往くことを得ざらしむ。国の大夫人あり、韋提希と名づく。
『観無量寿経』
まず、阿闍世王というのは、悪王・暴王であり、提婆達多などを友として、父である頻婆娑羅(ビンビサーラ)を幽閉してしまったのです。しかし、その妻である韋提希は、この夫である王を救わんとして、様々なはかりごとを廻らすのですが、上手く行かず、結局自分も一緒に捉えられてしまいました。その時、韋提希は幽閉された建物の中から、仏陀が居た耆闍崛山に向かって礼拝し、以下のことを願うのです。
時に韋提希、幽閉せられをはりて愁憂憔悴す。はるかに耆闍崛山に向かひて、仏のために礼をなしてこの言をなさく、「如来世尊、在昔の時、つねに阿難を遣はし来らしめて、われを慰問したまひき。われいま愁憂す。世尊は威重にして、見たてまつることを得るに由なし。願はくは目連と尊者阿難を遣はして、われとあひ見えしめたまへ」と。
この語をなしをはりて悲泣雨涙して、はるかに仏に向かひて礼したてまつる。いまだ頭を挙げざるあひだに、その時世尊、耆闍崛山にましまして、韋提希の心の所念を知ろしめして、すなはち大目犍連および阿難に勅して、空より来らしめ、仏、耆闍崛山より没して王宮に出でたまふ。時に韋提希、礼しをはりて頭を挙げ、世尊釈迦牟尼仏を見たてまつる。身は紫金色にして百宝の蓮華に坐したまへり。目連は左に侍り、阿難は右にあり。釈・梵・護世の諸天、虚空のなかにありて、あまねく天華を雨らしてもつて供養したてまつる。
時に韋提希、仏世尊を見たてまつりて、みづから瓔珞を絶ち、身を挙げて地に投げ、号泣して仏に向かひてまうさく、「世尊、われ宿、なんの罪ありてか、この悪子を生ずる。世尊また、なんらの因縁ましましてか、提婆達多とともに眷属たる。やや、願はくは世尊、わがために広く憂悩なき処を説きたまへ。われまさに往生すべし。閻浮提の濁悪の世をば楽はざるなり。この濁悪の処は地獄・餓鬼・畜生盈満し、不善の聚多し。願はくは、われ未来に悪の声を聞かじ、悪人を見じ。いま世尊に向かひて、五体を地に投げ、哀れみを求めて懺悔す。やや、願はくは仏日、われに教へて清浄業処を観ぜしめたまへ」と。
同上
掻い摘んでいえば、韋提希は世尊に対し、この苦しみの世界に生まれることになってしまった自分の境遇を嘆き、懺悔し、そして、素晴らしい世界に生まれ変わりたいと願います。その上で、世尊に対し、そのような素晴らしい世界を見せてくれるように願うのです。結果、世尊の神通力によって、極楽浄土を見ることが出来たのです。結果的に、説法を聞いた韋提希は「廓然として大悟して無生忍を得たり」と同経末尾にある通り、悟りを開きました。合わせて、聞いていた500人の侍女も、菩提心を発したといいます。その者達に世尊は、「みなまさに往生すべし。かの国に生じおはりて、諸仏現前三昧を得ん」と授記されました。
さて、無住がこの話を引いた理由は、世俗の幸せを超えて仏道に帰入すべきことと、世俗が不幸せであれば、かえって仏道に帰入しやすいだろうという話です。どうしても昨今では、「世俗中心主義」に把われているため、価値観も、世俗に於ける「序列」しかないと思い込みがちです。しかし、それは「絶対価値による牢獄」に、現代人が閉じ込められていることを意味します。むしろ、複数の価値観があって良いのです。その提供に、仏教は極めて有効な説話を持っておりました。この一話も、そのように理解可能でありますね。
【参考資料】
・筑土鈴寛校訂『沙石集(上・下)』岩波文庫、1943年第1刷、1997年第3刷
・小島孝之訳注『沙石集』新編日本古典文学全集、小学館・2001年
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