つらつら日暮らし

御袈裟は破戒の罪を救うのか?

このような文脈があった。

又、悲華経に袈裟に五種の功徳を説せらる。これは世尊の因地の修行の時の誓願にて、それを今日成就せらることを示さる。その五種の第一には、仏法に入て、たとひ禁戒を破せし罪ありても、一度この袈裟を信心して著たらん人は、不退転の授記あるべしと。
    面山瑞方禅師『釈氏法衣訓』、明治期再版本27丁表、カナをかなにするなど見易く改める


これを読む限り、御袈裟の功徳はかなりのものである。禁戒を破しても、最終的には授記(成仏するという予言を受けること)されるというのである。なお、面山禅師はその典拠を『悲華経』としているが、同経には修行中の釈尊が、五百大願を建てたことが示されている。

そこで、実際にはどういう文脈であるのか?

世尊よ、我れ成仏し已るに、若し衆生有りて我が法中に出家し袈裟を著くる者有り。或いは重戒を犯し、或いは邪見を行じ、若しくは三宝を軽毀し信ぜず、諸もろの重罪を集むる比丘、比丘尼、優婆塞、優婆夷、若しくは一念中に恭敬心を生じ、世尊、或いは法僧に於いて尊重す。世尊よ、是の如き衆生、乃至、一人として三乗に於いても、記莂を授け、退転する者のあらざらんことを。
    『悲華経』巻8「諸菩薩本授記品第四之六」、訓読は拙僧


先に引いた面山禅師の見解は、明らかに上記一節を受けている。これは、釈尊が成仏される前の因地の菩薩であったとき、建てられた誓願の1つであり、端的に御袈裟の功徳を示したものである。意義としては、釈尊が成仏した状況で、衆生でしかも自らの法中(仏教徒)で、出家し袈裟を着けている者が、重戒(波羅夷罪)を犯し、誤った見解を行い、三宝を軽んじるといった重罪を集めたとしても、そのような四衆が、一念に於いて恭敬心を生じ、三宝を敬ったとすれば、それだけで必ず成仏の予言を授けるとし、退転することが無いとしたのである。

いわば、御袈裟を着けていれば、多くの罪を犯したとしても必ず救われると説いたのである。これは、道元禅師の『正法眼蔵』「袈裟功徳」巻にも示される一節であり、面山禅師はそれを受けたものと思われる。

なお、この一節に対して、道元禅師は何か指摘しておられるのだろうか?

如来在世より今日にいたるまで、菩薩・声聞の経・律のなかより、袈裟の功徳をえらびあぐるとき、かならずこの五聖功徳を、むねとするなり。
    「袈裟功徳」巻


このように、釈尊が説かれた御袈裟の功徳の中でも最上の一節だとしておられるのだが、一方で、重戒を犯したことからも救うという観点を評価しているわけでもないといえる。よって、最終的な宗派内の共有については、良く分からないところも残すが、御袈裟の功徳の語られ方の一パターンということで見ておきたいと思う。

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