つらつら日暮らし

「不空の心」について(義浄『南海寄帰伝』巻3「十九受戒軌則」の参究・9)

9回目となる連載記事だが、義浄(635~713)による『南海寄帰伝』19番目の項目に「受戒軌則」があり、最近の拙ブログの傾向から、この辺は一度学んでみたいと思っていた。なお、典拠は当方の手元にある江戸時代の版本(皇都書林文昌堂蔵版・永田調兵衛、全4巻・全2冊)を基本に、更に『大正蔵』巻54所収本を参照し、訓読しながら検討してみたい。今回は、「不空の心」という字句について見ておきたい。

既に受戒し已て䞋施を行かず、若しくは其の師、為に少多を弁ること有り、或は腰絛を持し、或は濾水羅等、臨壇に奉は、不空の心を表するを以てなり。
    『南海寄帰伝』巻3・4丁表~裏、原漢文、段落等は当方で付す


短いが、連載記事なので、今回はこれだけを見ておきたい。しかし、意味が取りにくい文章である。もちろん、原因は当方の勉強不足に由来するから、反省ばかりしている。

それで、受戒してからは、布施を「行(ひ、と読む)」かずに、その師からは、布施の多い・少ないがあることを弁えることを指導されるべきことを意味していると思われる。

また、歩いて行く場合には、腰に組紐を吊るし、更に、濾水羅を持って歩くべきだという。この持ち物については、本書の「十衣食所須」で「六物」について採り上げ、以下の一節が見られる。

六・鉢里薩囉伐拏〈濾水羅なり。受戒の時、要らず須らく斯の六物を具うべし〉。
    『南海寄帰伝』巻2「十衣食所須」、同上


ここから、「濾水羅」は比丘六物の1つで、いわゆる「漉水嚢」と同じことだと分かる。

それから、「臨壇」については不明。普通に考えれば、戒壇に臨むくらいの意味か。それで、「不空の心」というのは、これも良く分からない。ただし、ここでは、敢えて「不空の心」を表すべきだというのだから、積極的なことなのだろう。それを思うと、布施とは三輪空寂が基本とはいうが、現実にはそうはいかないことを示しているのだろう。

次回の記事からは、受戒後の比丘としての学習法などを挙げる。

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