既に受戒し已て䞋施を行かず、若しくは其の師、為に少多を弁ること有り、或は腰絛を持し、或は濾水羅等、臨壇に奉は、不空の心を表するを以てなり。
『南海寄帰伝』巻3・4丁表~裏、原漢文、段落等は当方で付す
短いが、連載記事なので、今回はこれだけを見ておきたい。しかし、意味が取りにくい文章である。もちろん、原因は当方の勉強不足に由来するから、反省ばかりしている。
それで、受戒してからは、布施を「行(ひ、と読む)」かずに、その師からは、布施の多い・少ないがあることを弁えることを指導されるべきことを意味していると思われる。
また、歩いて行く場合には、腰に組紐を吊るし、更に、濾水羅を持って歩くべきだという。この持ち物については、本書の「十衣食所須」で「六物」について採り上げ、以下の一節が見られる。
六・鉢里薩囉伐拏〈濾水羅なり。受戒の時、要らず須らく斯の六物を具うべし〉。
『南海寄帰伝』巻2「十衣食所須」、同上
ここから、「濾水羅」は比丘六物の1つで、いわゆる「漉水嚢」と同じことだと分かる。
それから、「臨壇」については不明。普通に考えれば、戒壇に臨むくらいの意味か。それで、「不空の心」というのは、これも良く分からない。ただし、ここでは、敢えて「不空の心」を表すべきだというのだから、積極的なことなのだろう。それを思うと、布施とは三輪空寂が基本とはいうが、現実にはそうはいかないことを示しているのだろう。
次回の記事からは、受戒後の比丘としての学習法などを挙げる。
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