又釈迦の生国迦毘羅衛国と云は、印度にある一つの島で、めぐりがやうやう三百六十余里〈御国の六十里なり〉と云事でござる、是をせいらんと云てござる。増釈采覧異言に、此島は去赤道北方四度と有から、別して焼るやうでござる。則釈迦の修行したる霊鷲山といふ山が有て、古跡も存してあるそうでござる。
『平田先生講説 出定笑語(外三篇)』11頁、漢字を現在通用のものに改める
ここは、釈尊の生国について、篤胤が論じた場所なのではあるが、これはどういうことか???
まず、迦毘羅衛国というのは、いわゆる「カピラヴァストゥ」のことであるから、名称的には問題が無いが、今の我々はその土地が、現在のネパール南部からインド北部あたりにあったのではないか?と思っているが、どうも確定ではないという。だが、流石に「せいらん」ではないだろう。なお、この「せいらん」だが、セイロン島、いわゆるスリランカを指している。
なお、以前も指摘したが、篤胤は玄奘三蔵の『大唐西域記』や新井白石の『采覧異言』などを下敷きに、インドの風土や習慣について理解しているのだが、果たして、カピラ国をセイロン島とするのは、何か典拠があるのだろうか?以前から、当方で少しずつ読んでいる経典を見ると、以下のような記述がある。
今人の世間、閻浮提の地、北方雪山の下に当たりて、釈種の城有り、迦毘羅と名づく。
『仏本行集経』巻9「相師占看品第八上」
このように、釈尊本人のみならず、釈迦族全体について記述されている『仏本行集経』では、迦毘羅城は北方雪山(ヒマラヤのこと)の麓にあるかのような記述となっており、現代的な我々の実感にも相応している。更に、以下のような記述も見られる。
恒河の西北、迦毘羅城に一園林有り、嵐毘尼と名づく。
『大方広仏華厳経(四十華厳)』巻25「入不思議解脱境界普賢行願品」
このように、こちらもインド北東部を流れるガンジス川の更に北西部にあるという。少しく場所の把握は困難ではあるが、一応、大乗経典でもこのような記述があることを紹介しておきたい。それから、印度の風土・習俗や仏教の事績について報告した玄奘三蔵『大唐西域記』では、巻6に「劫比羅伐窣堵国」として紹介されているが、場所については中々難しい。ただし、「中印度境」とあって「北印度境」よりも南にあったことを示している。もしかすると、現在、我々が知っている場所よりも、遙か南にあったのかもしれない。とはいえ、セイロン島ということもあるまい。
なお、篤胤はカピラ国が先述の通り、インドの南海にあったことを疑っていない。
釈迦が生たるカビラエ国は、とくに其子孫も亡び、今は彼コンロンボの国と共に、阿蘭陀にせしめられて仏法も大方亡び、切支丹宗になりてしまつたる故……
『平田先生講説 出定笑語(外三篇)』12頁、漢字を現在通用のものに改める
コンロンボというのは、いわゆるコロンボ(かつてのスリランカの首都)のことを指しているので、セイロン島をカビラエ国の所在だと判断しているといえる。そして、セイロン島は1658年にオランダによってコロンボが占領され、それまでのポルトガルから支配者を変えたことが知られている。ただし、セイロン島内にキリスト教徒が増えたのは、ポルトガルによる支配時期であり、プロテスタントだったオランダの支配時期には仏教やヒンドゥー教に対しても寛容だったとされている。
要するに、上記内容から知られるのは、篤胤のインド理解について、かなり曖昧なところが見られるということである。この辺は、今後も篤胤の文献を読むときに注意したいところである。
【参考文献】
・鷲尾順敬編『平田先生講説 出定笑語(外三篇)』(東方書院・日本思想闘諍史料、昭和5[1930]年)
・宝松岩雄編『平田翁講演集』(法文館書店、大正2[1913]年)
・平田篤胤講演『出定笑語(本編4冊・附録3冊)』版本・刊記無し
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