今日は、日蓮聖人の言葉から、「南無」を学んでみよう。
仏説いて云く、南無とは驚覚之義也。
まずはここからである。出典はよく調べきれなかったのだが、意味としては理解出来る。要するに、南無というのは驚き覚めること、転じて言えば、迷いがたちどころに晴れることをいう。では、何故そうなるのか?
此の故に一切の仏の始めは南無と申す。南無と申すは月氏の語、此土にては帰命と申すなり。帰命と申すは天台釈して云く、命を以て自ら帰す等云云。
要するに、南無というのは、月氏(現在でいうところのパキスタンとかその辺)の言葉だが、中国では「帰命」と訳された。これを、天台智者大師が釈して、命を仏の世界に帰することをいう。よって、仏に全てを任せてしまうが故に、驚き覚めることになるといえよう。
南無と申す字は敬ふ心也。随ふ心也。
こちらは、写本でのみ伝わった教えのようだが、南無について敬う心、随う心であるとしている。特に、三宝に対して敬い、随う心なのである。
拙僧つらつら鑑みるに、南無というのは、その対象を信じる心だが、こう、しがみつくような感じでは無いと思う。むしろ、お任せしてしまうことであろう。しがみつくというのは、執着になる。執着と信仰とを混同してしまうと、迷いが深くなる。だが、お任せは執着にはならない。だが、信念も信仰も出る。また、自らへの執着を投げ捨てて任せてしまうから、悟りに近くなる。
南無というのは、それくらいカラリとしたものであるべきだと思う。
今日は南無の日。手を合わせ、口に出して唱えてみよう。南無帰依仏、南無帰依法、南無帰依僧。合掌
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