中出家とは、始め具戒を受けるも、沙門の儀法、未だ能く周悉せず、要らず須らく有徳の行者に依止長宿すべし。
是を以て、優波離、仏に問う「幾法を成就し尽くせば、依止せざらしむるや」。
仏答う、「凡そ二十五法を成就すれば、依止せず」。広く、之を言えば二十五法なり、要を取りて之を言えば、但だ能く二部の戒を知りて本と為し、今、但だ十法を成就す。
『大比丘三千威儀』巻上
これが、「中出家」である。どの辺が「中」なのか?読み解いていきたい。まず、中出家については、「具足戒」は受けているという。ところが、沙門の儀法については、周悉していないというから、完全に理解しているわけでは無いといえよう。そのため、必ず「有徳の行者」に対して、依止し長宿すべきだというのである。これは、以前から拙ブログでも何度か申し上げている「依止」の必要性が説かれている。
それで、この件から、優波離尊者が仏に対し、「機法を成就し尽くせば、依止しなくても良いのか?」と尋ねている。正直なところ、依止の必要性は、「5年」という時間も伴って設定されていたはずなのだが、この辺は理解している「内容」が問題視されていることに、注意しなくてはならない。
仏の答えは、「二十五法を成就すれば、依止しなくて良い」というものであった。この「二十五法」が、拙僧は今一つ理解出来ていない。例えば、今回引用している『大比丘三千威儀』に「二十五法」という語句は出るが、上記の2箇所のみである。他の箇所などを参照出来ないので、実態が不明なのである。
それから、「二十五法」とは、具足戒を受けた比丘が、最低限学ぶべきことだと仮定して、それは「広」だとし、「略」が設定されていて、その場合は、「二部の戒」を本とし、「十法」を成就すべきだという。二部の戒とは、後の註釈などで「僧戒」と「二百五十戒」とされるので、いわゆる沙弥戒と具足戒を意味していよう。
その上で「十法」とは、『四分律』に詳しい。
十法有れば応に比丘尼の教授に差わすべし、
二百五十戒を具持し、
多聞し、
広く二部戒の毘尼に誦し、
善巧の語言弁説了了たり、
大姓の出家の刹利・婆羅門・居士、
形貌端政にして、
比丘尼恭敬し、
比丘尼の為に説法して歓喜せしむるに堪任す、
仏の為の故に出家し袈裟を著して重罪を犯さず、
若しくは二十の臘、若しくは二十の臘を過ぐ、
是れを十と為す。
『四分律』巻60「毘尼増一之四」
しかし、いつも思うが分かりにくい。それに、この一節、解説が見当たらない。日本の文献だとあるのだろうか?しかも、これは比丘を、比丘尼の教授阿闍梨として派遣するために、成就すべきことだとされる。よって、それが「中出家」として全体的な話になるのが、理解出来ないのだが、それを除いても、出家として必要なことだったのだろう。
ところで、関連して、この辺は【依止師について】という記事でも書いたので、併せてご覧いただければ幸いである。実は、拙僧自身よく分かっていなくて、色々と調べていたら、自分のブログがヒットしたという為体である。
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