爾の時、世尊、優波離に告ぐ、「汝、今、当に知るべし。声聞・菩薩、清浄戒を学ぶも、発心する所、修行する所、異なれり。
優波離よ、
声聞乗有りて清浄戒を持す、菩薩乗に於いて大破戒と名づく。
菩薩乗有りて清浄戒を持す、声聞乗に於いて大破戒と名づく。
云何が、声聞乗の人、浄戒を持すると雖も、菩薩乗に於いて大破戒と名づくと為すと名づくや。優波離よ、声聞乗の人、乃至、応に一念に於いて更に後身を受くることを起こさず、是れを声聞の清浄戒を持つと名づく、然るに菩薩に於いては大破戒と名づく。
云何が、菩薩の清浄戒を持つを、声聞乗に於いては大破戒と名づくや。菩薩摩訶薩、大乗を修行して、能く無量阿僧祇劫に於いて身を受くるを堪忍して厭患を生ぜず。是れを菩薩の清浄戒を持つと名づけ、声聞乗に於いて大破戒と名づく〈以下は次の記事〉。
『大宝積経』巻90「優波離会第二十四」、原漢文
上記内容からすれば、菩薩と声聞では、持戒の方法がそもそも異なっていると指摘している。特に、菩薩と声聞とで、それぞれ持戒の方法など、教義的な差異が指摘されている。そこで、本経では声聞と菩薩がともに、清浄戒を学んでも、発心・修行するところがともに異なっているという。
そこで、声聞乗の人が清浄戒を持戒すれば、菩薩乗に於いては大破戒になるという。一方で、菩薩乗の人が清浄戒を持戒すれば、声聞乗に於いては大破戒になるという。何故このような相違が出るのだろうか?本経では、声聞の場合、この一生で解脱し、後身(来世)を受けないことを、清浄戒としていることを挙げている。
何故ならば、菩薩の場合、生生世世に衆生を救済し続けることを誓願とするため、結果として、この一生で終わるというのは大破戒になるのである。
一方で、菩薩に於ける清浄戒が、声聞に於いて大破戒となる理由は、その反対だと理解出来、つまり、無量の阿僧祇劫の間に、生まれ変わりするが、それを嫌がらずに誓願として積極的に人々を救済し続ける、それが菩薩である。よって、それはこの一生の間に解脱しようとする声聞にとっては、大破戒となるのである。
要するに、世界観、宗教観なども含めて、全く異なる価値観にあるのが、声聞と菩薩であり、その間にある清浄戒も、その持戒の方法が全く異なることが理解出来るわけである。
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