つらつら日暮らし

「出家得度」における『戒脈』の意義

今日も備忘録的な記事である。

それで、以下は余り長くない記事である。宗門の古い形の「戒脈」として知られているのは、道元禅師が授けたという『授理観戒脈』及び『授覚心戒脈』が知られている。両者ともに現存している状況をかいつまんで説明しておきたい(春秋社『道元禅師全集』第7巻の解題を参照している)。

・『授理観戒脈』
⇒原本は散逸していて伝わらないけれども、永平寺で『三国伝灯菩薩戒血脈』と呼称されている。理観は、詳しいことは知られないけれども、道元禅師が敢えて、菩薩戒を明全和尚から授かったことを示しつつ臨済宗黄竜派・天台宗(ともに栄西禅師系)の戒脈が合揉されたものを授けられた。識語からすれば、文暦2年(1235)8月15日であり、思想的な内容については、「舎那七仏・三師の脈」とある。「舎那七仏」とは『梵網経』の思想的影響を背景に、盧舎那仏から釈迦牟尼仏へと到ったことを示し、更に歴代の祖師を経由して、当代まで嫡嫡相承したことを示すものである。

・『授覚心(心瑜)戒脈』
⇒原本は散逸していて伝わらないけれども、大分県泉福寺にその識語のみが伝わる戒脈である。覚心というのは、道元禅師から菩薩戒を受けたとされる臨済宗法灯派・心地覚心禅師のことである。なお、永平寺50世・玄透即中禅師が、天台宗と禅宗二系統(曹洞・臨済)の戒脈を合揉して、この戒脈を模造したらしいが、それは誤りだとされる。泉福寺本の識語からは、栄西禅師―明全和尚を経由して相伝された臨済宗黄竜派と、天童如浄禅師から受けた曹洞宗の流れしか見えず、多分に禅宗のみの戒脈だったのだろう。なお、詳しくいうと、泉福寺本の識語とは、覚心が更にその門弟心瑜に正応3年(1290)9月10日に授けたものであり、今は通称して『授覚心戒脈』とはいうが、それは正確とはいえないように思う。

それで、この両者の戒脈から分かることは、少なくとも、道元禅師の出家得度(天台宗の公円僧正から受業されたという)についての戒脈(もし存在したと仮定してだが)などは一切見えないことである。覚心の方は元より、禅宗のみであるだろうから、余り関係が無い。一方で理観の方についても、現存する戒脈が正しかったと仮定してだけれども、道元禅師まで来ている「天台宗」の戒脈は、栄西禅師のそれである。つまり、栄西禅師が保持していた諸戒脈を統合し、栄西禅師から明全和尚を経て、道元禅師に伝わったものなのである。

そう考えると、道元禅師に関わる伝承物として、ご自身が受業の時に受けられたかもしれない『戒脈』などは、授けた系譜上にも存在していないことになる。もちろん、道元禅師が出家させたかもしれない門弟に対しての物も残っていない。これらのことから考えると、やはり道元禅師の時代には、得度の時の『戒脈(血脈)』授与は無かったと考えるのが自然だろうか。

なお、理観にしても覚心にしても、道元禅師からすれば、出家したての者という立場では無かったと思われる。特に、『授理観戒脈』奥書からは、「若し梵行の人、衣鉢を帯びる者に非ざれば、授与すること莫れ」とあって、梵行を立て、衣鉢を帯びるほど、つまりは法の伝授を受けるべき者であれば初めて授戒可能であることを示しているのである。

拙僧は以前、この『授理観戒脈』のことを知らずに、天台宗系だというのなら、出家の時のも入っているのか?位に思っていたが、入っていなかったので、考えを改めたことがある。つまり、受業は受業、伝戒は伝戒という風に価値を分ける必要があるのである。そう考えると、『正法眼蔵』「陀羅尼」巻に於ける受業師と本師と分ける意味も分かるような気がする。もちろん、師としての本質的な差異があるわけでは無く、同巻でも同じ場合があることを指摘している。

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