つらつら日暮らし

凝然大徳「律宗秀句十首」参究(後半)

前半】の続きである。早速に偈頌本文を見ていきたいと思う。ところで、読んでいる内に気付いたのだが、同じ凝然大徳の『内典塵露章』にも、今回見ている「秀句」が適宜活用されていることが分かった。「律宗」項のみを比較しただけだが、ほぼ同じであった。問題は「ほぼ同じ」ということであり、相違点も若干だが存在した。そうなると、その違いが何に起因するのかが気になるのである。それはまた、別の記事になると思うが、検討してみたいところである。

ということで、前半の続きである。

聳聳たる調伏の徳、戒瓶を横て而も破せず、
巍巍たる尸羅の威、律冠を載て而も及ぶこと無し。


これらは両方とも、仏教の戒律の意義を示したものである。戒律には堂々と聳えたる調伏の徳があり、また、巍巍とした尸羅(戒)の威力は、受けた1人1人に律の冠をかぶせて、他に及ぶものが無いほどに優れているというのである。

一戒三智の風は、二障戯論の境塵を払ひ、
三学双持の華は、雨諦潤益の心池に開く。


一戒三智については、典拠の確定は出来ないが、天台宗の荊溪湛然『法華玄義釈籤』巻8に菩薩行として「故一施一戒皆具三諦三智三德」とあるため、その辺を意識したものか?その三智の結果、二障(『法華玄義釈籤』巻7では「煩悩障及び智障」)及び戯論のような世界を打ち破るとし、三学を全て持つような華については、雨降らして心の池を開くという。

蔵識所薫の種、直に三身の妙果を尅す、
心地能行の徳、親く四智の極位を成す。


まず「蔵識所薫の種」というのは、蔵識=阿頼耶識によって薫ぜられた煩悩の種を指すが、三学護持の結果、仏陀三身という妙果を得るとし、自らの心を糺す修行の徳によって、四智(『法華文句記』巻4では、「四智とは、謂わく道慧・道種慧・一切智・一切種智なり」とする)という極位を成ずるとしている。この辺は、端的に持戒(三学)の徳を素直に讃えたものである。

五篇七聚の目、大海の一味に和し、
三聚十重の足、高山の三徳を顕はす。


ここまでで秀句十首を終える。まず、五篇七聚の目というのは、いわゆる比丘戒に於ける全ての内容を示し、それが大海の一味に和しとあるのは、それが全ての仏教に通じるということを示すものか。その上で、三聚十重というのは菩薩戒を示すので、その足を重ねることで、「高山の三徳」を顕すとしている。この三徳が何を指すのか、ちょっと調べただけでは分からなかったのだが、おそらくは「雲の上に出ることが出来る(煩悩を超出する)」「地上で最初に太陽の光に照らされる(仏陀の智慧を浴びやすい)」「遠くまで見通すことが出来る(多くの衆生を救える)」ということが考えられるだろう。もしかすると、「三聚浄戒」に対応しているのかもしれない。

ということで、以上までであるが、やはり凝然大徳が諸宗派の教学を横断的に学んでいる様子を見ることが出来た。「律宗」「華厳宗」のみではなくて、諸宗派の教義書を読んでいることも分かった。そういう中でも、「律宗」を讃える場合には、仏教の戒律を中心に展開させたのである。

ここまでやったのだから、ついでに『内典塵露章』「律宗」項も学ぶべきだと思ったが、それは別の記事にしておきたい。

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