とりあえず、今回の記事では、かつて【葬儀時に棺へ「血脈」を入れるべきか否か?】という記事でも採り上げた子登『真俗仏事編』巻5に収録されている「春秋彼岸仏事」という文章を見ておきたいと思う。
春秋彼岸仏事
問ふ、春秋の中の時節を彼岸と名づけ仏事を修し善根を作す時とす。其の故、如何。
答て曰く、此に三説あり、下より列して示さむ。
『真俗仏事編』巻5「雑記部」
冒頭の文章は以上である。なお、当方、本書の享保13年版も持っているが、明治19年の縮刷版も持っている。今回は、縮刷版を見ながら記事を書いているが、若干の視力減退が確認される昨今、縮刷版の字の小ささに辟易している・・・
さておき、まずは上記の内容をご覧いただきたい。ここでは、春と秋で、彼岸という時期があって、仏事を修行し、善根を積むのは何故か?と聞いている。それについて、本書では3つの考え方があるので、それを並べて示すとした。なお、1つ1日として、3日間に分けて考えることとしたい。
◯第一説に云わく、それ仏法は中道を崇ぶ。此の時節は昼夜等分にして長短無し。まことに中道の時なり。故に仏事を修する佳節なり。
前傾同著
とても面白い説であるが、当方、勉強不足が祟って、この説を聞いたことがなかった・・・はず?!いや、昼夜の問題と、秋分の日の太陽の動き方から、「中陽院」という場所が兜率天にあって、とかいう話は聞いたことがあるし、浄土真宗の覚如上人『改邪鈔』中の問答や、『和漢三才図会』巻4「時候類」に入る「彼岸」項でも「中陽院」の話は出ていることで知られる。だが、それと「仏法は中道を崇ぶ」という話が一緒になっているとは、当方は寡聞で聞いたことがない。
それから、仏法が中道を崇ぶというのは、江戸時代中期の日本で常識だったのだろうか?日本の仏教では、各宗派に分かれた教義・宗旨が優先され、釈尊の直説についても、それらに影響を受ける状況であった。そもそも、中道自体、大乗仏教ではそれほど重視されない。「中」について扱った、龍樹尊者『中論』などもあるが、それとは異なる。
それなのに、急にここで出て来たことに驚くのである。
なお、明日は「第二説」以降を見ていくので、そういう中で、この辺の不明な点が明らかになることを願っている。
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