つらつら日暮らし

師となる条件について(義浄『南海寄帰伝』巻3「十九受戒軌則」の参究・12)

12回目となる連載記事だが、義浄(635~713)による『南海寄帰伝』19番目の項目に「受戒軌則」があり、最近の拙ブログの傾向から、この辺は一度学んでみたいと思っていた。なお、典拠は当方の手元にある江戸時代の版本(皇都書林文昌堂蔵版・永田調兵衛、全4巻・全2冊)を基本に、更に『大正蔵』巻54所収本を参照し、訓読しながら検討してみたい。今回は、他の僧侶の師となる条件について見ていきたい。

 凡そ親教師と為る者は、要ず須く住位して十夏を満足すべし。秉羯磨師及び屏教の者、并びに余の証人、並びに定年無し、幾の事、須く律清浄を解し、中辺数満ずべし。
 律に云く、「鄔波駄耶に非ざるを而も喚で鄔波駄耶と無し、阿遮利耶に非ざるを喚で阿遮利耶と為し、或は此の二を翻し、及び親しく鄔波駄耶の名を斥くは、皆、悪作の罪を得る」。
    『南海寄帰伝』巻3・5丁表~裏、原漢文、段落等は当方で付す


これには、幾つか説明を要するが、とりあえず「親教師」とは、他の呼び方であれば「和尚」や「和上」のことである。この立場は、十夏以上の法臘(この場合は、比丘となってからの年数)を得ることが条件となっている。なお、呼び方として、「鄔波駄耶」とあるが、これは和尚を示す梵語のウパードヤーヤの音写である(本当は「和尚」もそうなのだが、俗語形とされる)。また「阿遮利耶」は「阿闍梨」と同じ字句の音写である。

一方で、「秉羯磨師」と「屏教」は年数は関係ないとしている。とはいえ、一般的に、前者は「羯磨阿闍梨」で、後者は「教授阿闍梨」のことと思われるので、五夏以上の法臘を要すると思うのだが、関係ないとなっている。そして、証人は年数関係ないというのは、その通りだと思う。

教授阿闍梨と「屏教」とするのは、戒壇に於いて受者の資格を問う尋問者であることを意味し、尋問は戒壇の屏所の陰で行うからである。なお、これらのものは、とにかく「律清浄」を解す必要がある。

さておき、ここで義浄は「律蔵」を引用しているが、実際の典拠は、当方の調査では不明である。意味としては、「和尚では無い者を和尚と呼び、阿闍梨では無い者を阿闍梨と呼ぶ、この2つは、悪作の罪を得る」とある。要するに、師となる条件などを、しっかりと守るように促したものだといえよう。

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