瑜伽論に云く、「一つには有為を厭うの心、二つには菩提を求趣するの心、三つには有情を悲愍するの心なり」。
『釈氏要覧』「持戒三心」項
それで、上記のように典拠は『瑜伽論(瑜伽師地論)』だとはするが、同論にはこの字句のままでは出て来ないし、この3つが繋がる形で説示されている箇所も良く分からない。それで、色々と調べてみたところ、先行する文献として、以下の一節を見出した。
第四門中、制して三聚を立つ。中に於いて略ぼ五義を以てこれを制す。一つには起因の不同なるが故に三聚を立す。起因と言うは、一つには有為を厭う心、律儀戒を起つ。二つには菩提を求むる心、摂善戒を起つ。三つには衆生を念う心、摂生戒を起つ。
『大乗義章』巻10「三聚戒七門分別」
若干言い方は違うものの、ほぼ同じことを指摘している。要するに、先に挙げた「持戒三心」が、実質的に「三聚浄戒」に配されることを示している。そうなると、「三聚浄戒」は別に「瑜伽戒」などとも呼称されるから、そこで『瑜伽論(瑜伽師地論)』を典拠としているのかとも思う。
ただし、『大乗義章』が指摘するように、「持戒三心」を「三聚浄戒」に配しても良いのか?と思うと、微妙に合わなかったりする。「三聚浄戒」は明らかに善悪の問題に、大乗仏教でいうところの摂衆生戒を入れたものだから、善悪はそれとして弁えられるべきだと思うが、「持戒三心」では、有為を厭う、菩提を求めるという話になっており、遠いわけである。無論、善悪に関する実践の結果そうなる、というのは理解出来るが、いきなり遠いのも如何かと思う。
ところで、そもそも、「持戒三心」という言い方をしたのは、『釈氏要覧』からのようで、本書以降の類書がそれを踏襲している。転ずれば、それまではそうなっていなかったわけである。更に、この三心が「持戒」を意味するのか?と考えてみると、先に挙げた通り、『大乗義章』の解釈があり、三聚浄戒として捉えることで初めて「持戒」に関わるとはいわれる。
もし、その分が無ければ、大乗菩薩僧の実践綱要くらいの理解で止まったことであろう。
『瑜伽論』の本文にこれがあれば、もう少し話を膨らますことも出来たであろうが、残念ながら当方には見つけられなかった。なお、『釈氏要覧』にはこの「持戒三心」に似た、「持戒三楽」も出ているが、それはまた別の記事で参照してみたい。そちらは、明確に『四分律』に遡ることが出来、もう少し展開しやすい内容となっているためである。
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