若し常住を餐するは、聖教、全く遮る。必ず其れ衆に於いて労有るは、功に准じて亦た餐食に合す。
或いは是れ普通の食、或いは施主、心を先んずべきは、復た餐食すと雖も、故に罪無しと成す。
夫れ龍河影没し、鷲嶺光り收る。
伝法の羅漢、能く余り幾くか在らん。故に論に云く、大師眼閉じれば、証も随て亡す、煩悩増す時、応に勤て逸すること莫れ。
理、当に諸徳共に護持を作すべし、若し委随にして慢心を縦ままにするは、人天、何れの所に帰向することを遣らんと欲するや。
『南海寄帰伝』巻3・5丁裏~6丁表、原漢文、段落等は当方で付す
以上について、読み解いていきたい。まず、「常住」というのは、僧伽自体で持っている食料や財産などを指す。つまりは、共有物になるのだが、これを餐(食事)に供することは、聖教(仏陀の教え)も遮っているとする。ただし、大衆の中で、特に労があった者については、その功績に応じて、常住からの餐も食事に組み入れるという。
それから、全員分の食事や、施主からの食事の供養で、特に希望があった場合には、その分が増えても、罪無しにするという。
「伝法の羅漢」云々は、おそらく「応供」という存在について、指摘されているのだと思うが、大師釈尊が眼を閉じた(入滅)後は、悟りもそれにともなって滅びてしまい、煩悩が増してしまう時は、修行に励んで抑えるべきである、としている。そして、徳の高い比丘達は、ともにかつての道理を護持するように求めており、それが出来ずに、慢心をほしいままにしてしまうと、人間界・天上界の者たちが、どこに向かって帰依をすれば良いか分からなくなってしまう、と警告したのである。
なお、「論に云く」として引用されているのは、おそらくは『倶舎論』であろう。
大師の世眼久しく已に閉づ、証を為すに堪える者多く散滅す、
真理を見ず人の制する無し、鄙の尋思に由りて聖教乱す。〈中略〉
既に知る如来正法の寿、漸次に淪亡して喉に至るが如し、
是れ諸もろの煩悩力増すの時、応に解脱を求めて放逸すること勿れ。
『倶舎論』巻29
漢訳の同論を調べた限りだが、おそらくはこの箇所のことを承けて、義浄が述べたのであろう。食事について述べた後で、修行の目的を確認されたのである。そして、次回は本文の締めくくりということで、まとめてみたい。
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