天平三年〈丙辰〉旧本の伝灯に云く、十月五日に達磨卒す。十二月に洛陽の熊耳山に葬る。
『景徳伝灯録』巻1「西来年表」
このようにあって、天平3年(536)10月5日に、達磨大師が遷化されたとする。もちろん、達磨大師が実在か否かというのは問題ではあるが、少なくとも禅宗の灯史では、以上のように示され、実在などは疑われずに、この日に達磨忌を行った例も増えていくわけである。とはいえ、それが実際に行われるのは、中国なら宋朝禅以降、日本は元々宋朝禅の導入となるので、鎌倉時代には実施例がある。
おそらくは、灯史で遷化した日付が理解され、そこで、忌日に供養を行うようになったのではないかとも思うが、その辺はそれとして研究すべきか、或いは先行研究があるのかもしれない。
達磨忌の上堂。
達磨東土に来たりて、種瓜の瓠を生得す。
法を伝えて迷情を救い、灼卜として虚声を聴く。
一花五葉を開き、春光倶に漏泄す。
結果自然に成じ、枯中亦た栄有り。
這個下の語、坑に就いて物を埋めるが如し。誰ぞ此れを能くすること無し。
諸人、還た知るや、未だ天竺を離れずして已に迷情を救い了る底の一著をや。
良久す。
低声低声、傍観なる者を哂らう。
『大覚禅師語録』巻上
これは、鎌倉時代の来日僧、蘭渓道隆禅師の上堂語である。なお、全体としては達磨大師の四句偈である「吾本来茲土、伝法救迷情、一華開五葉、結果自然成」を元にしつつ、1句目を「達磨来東土」に変えたものである。そして、四句偈への著語をもって、上堂語としていることが分かる。
「達磨東土に来たりて ⇒ 種瓜の瓠を生得す」とあるが、これは達磨大師が中国に来ることによって、中国の衆生が持つ仏性が仏に育つような印象であろう。
「法を伝えて迷情を救い ⇒ 灼卜として虚声を聴く」だが、これは卜骨のことを指し、占いのために動物の骨を焼くけれども、その時になる音を指している。だが、その音に意味があるわけではないので、「虚声」という言葉を指しているが、これは、法を伝えることが音声に依らないこと、いわゆる教外別伝を指し示しているのだろうか。
「一花五葉を開き ⇒ 春光倶に漏泄す」とあるが、これは「一花五葉を開く」ことを示すが、何故、「春光」なのだろうか。これは、花が咲くのが春であり、しかも、それを悟りを開くことに重ねているためであろう。
「結果自然に成じ ⇒ 枯中亦た栄有り」については、実(悟り)がなることについて、時期的には木が枯れたように見えるかもしれないが、実際にはその枯木の中に栄があるように、仏性が衆生の中に働いている、とでも解釈できようか。
そして、蘭渓禅師はこのような言葉は、溝に物を埋めるようなものであるとしつつ、学人に対して、達磨がインドを離れずに、どのように中国の人々を救ったのだろうか、と問うた。蘭渓禅師の答えは、「声を小さくしろ」、といいつつ、「傍観者となる者はあざ笑われるぞ」と注意したのであった。
達磨の仏法とは、どこにいても得られるものであるが、それはどこまでも得る本人次第ということなのである。他者に対してどうこういう暇は無い。
この記事を評価して下さった方は、にほんブログ村 仏教を1日1回押していただければ幸いです(反応が無い方は[Ctrl]キーを押しながら再度押していただければ幸いです)。
最近の「仏教・禅宗・曹洞宗」カテゴリーもっと見る
最近の記事
カテゴリー
バックナンバー
2016年
人気記事