つらつら日暮らし

『クルアーン』と「モーセの十戒」

モーセの十戒に関する雑考】という記事との関連で、『岩波イスラーム辞典』(2002年)を読んでいた所、イスラームの聖典である『クルアーン』にも「モーセの十戒(以下、「十戒」)」が出ていることが分かったので、それを採り上げておきたい。

まず、『クルアーン』を見てみると、「十戒」に関する指摘が見られる。

 仰せられた。「ムーサーよ、われはおまえをわが使信とわが言葉によって人々の上に選り抜いた。それゆえ、われがおまえに授けたものを掴み、感謝する者たち(の一人)になれ」。(7:144)
 そして、われらは彼のために書板(複数)にあらゆることを、訓告とあらゆることに対する解説として書き留めた。それゆえ、それを力強く掴め。そして、おまえの民にそれの最良のものを守るように命じよ。(7:145)
    中田考氏監修『日亜対訳クルアーン』作品社・2014年、197頁


この通り、前回の記事で紹介したように、モーセ(ムーサ―)によって石板(書板)に言葉を書き込んだことも記されている。ここで、「十戒」とは出ていないものの、「出エジプト記」を理解していれば、上記の一節を納得することが出来る。

なお、イエスは「十戒」に対する新たな解釈を出すに至ったが、イスラームでは「十戒」についてどう考えているかを見ておきたいのだが、調べたところ、「十戒」の条文に相当する文章も出ているらしい。なお、【○条】として「十戒」との関係性を指摘した。不明な場合は【?】にした。

 言え、「来るがよい。おまえたちの主がおまえたちに禁じ給うたものを私が読み聞かせよう。
 おまえたちは彼になにものをも並び置いてはならない。【1条】
 そして、両親には善行を。【5条】
 また、困窮からおまえたちの子供を殺してはならない。われらがおまえたちと彼らを養う。【?】
 また、顕れたものにしろ隠れたものにしろ醜行に近づいてはならない。【7条?】
 また、アッラーが(不可侵として)禁じ給うた命を正当な理由なしに殺してはならない。【8条】
 それが彼がおまえたちに命じ給うたものである。きっとおまえたちは理解するであろう」、と。(6:151)
    前掲同著・177頁


そして、この一節が「十戒」に該当するとはいうのだが、厳密に言えば異なっている。いわゆる「十戒」相当なのは、1・6・9条については理解出来る。だが、ここだけでは不足しているし、明らかに「十戒」には含まれない言葉も入っている。それから、【7条?】と書いてある意味について、理解出来なかったのだが、この「醜行」については、不倫(姦淫)行為を意味しているらしい。これはそう理解するしかないであろう。

それから、更に続くようなので、それも見ておきたい。

 また孤児の財産には、彼が壮年(三十-四十歳)に達する(行為能力者となる)までは、より良いものによってしか近づいてはならない。【?】
 また升目と秤は公正に量りきれ。われらは誰にもその能力以外のものを課すことはない。【?】
 また、おまえたちが語る時にはそれが近親であっても公正にせよ。【9条】
 また、アッラーとの約定は果たせ。【?】
 それこそが、彼がそれを命じ給うたこと。きっとおまえたちは留意するであろう。(6:152)
    前掲同著・178頁


以上である。こちらも「十戒」との関わりがあるようだが、詳しいことは分からない場合が多い。語る時には、(相手が)近親であっても公正にせよというのは、「十戒」の「おまえの隣人に対して、偽証をしてはならぬ」に相当するため、ここの関係は明らかだが、他は良く分からない。

 また、これがまっすぐなわれの道であるがゆえに。それゆえ、それに従い、諸々の道には従ってはならない。さすればそれらがおまえたちを彼の道から離れさせる。【2条】
 それこそが、彼がそれをおまえたちに命じ給うたこと。きっとおまえたちは畏れ身を守るであろう。(6:153)
    前掲同著・178頁


これは、主への信仰を一心に行うべきであり、他の神への信仰があってはならないことを示したものだと思われる。

そこで、以上から、『クルアーン』には「十戒」を想起させる文章があることは分かった。そもそもの「十戒」も、そのように「数えられてきた」というだけで、実際に神が「1つ、2つ、3つ」と条文を唱えたわけではない。また、拙僧どもからすれば、イスラームが新旧両聖書を用いることは周知の事実だが、意外とそういうことを知らない人もいるようなので、もう一つ、アッラー自身が従来の『聖書』をどう位置付けていたか、以下の一節を見ておきたい。

 それからわれらは、善を尽くす者への完成として、またすべてに対する解説として、また導きと慈悲として、ムーサーに啓典を与えた。きっと彼らも彼らの主との会見を信じるであろう。(6:154)
 そしてこれ(クルアーン)はわれらが下した祝福に満ちた啓典である。それゆえ、それに従い、畏れ身を守れ。きっとおまえたちは慈悲を授かるであろう、と。(6:155)
 「啓典はわれら以前の二派(ユダヤ教徒、キリスト教徒)に下されただけである。そしてまことに彼らの学ぶものをわれらは知らなかった」とおまえたちが言うこと(がないように)。(6:156)
    前掲同著・178頁


上記の通り、アッラーはユダヤ教徒・キリスト教徒へ「啓典」が下されたことを示しつつも、『クルアーン』の優位性を示した。とはいえ、同じ神であるから、自らが従来に下したことについて否定はしないのである。つまり、或る種の宗教的スクラップアンドビルドだが、『クルアーン』に於ける他派への言及については、もっと多くの事例を見ていく必要がありそうだ。

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