つらつら日暮らし

菩提達磨大和尚への或る評価

とりあえず、以下の一節をご覧いただきたい。

 上堂。
 初祖西来して震旦の温至なり。前後、妙なりと雖も、嵩嶽、独り親しし。迢迢たる航海三周、兀兀たる面壁九歳、児孫、天下に遍満し、嫡嗣、適たま吾朝に臨む。
 謂いつべし、
 国、初めて戒定慧の本主を感得す、民の王を得るが如し。
 人、方に身口意の善根を決定す、闇に灯を得るが如し。
 誠に是れ、
 優曇華の開いて一切愛敬し、獅子哮吼すれば妖怪倶に休す。〈以下略〉
    道元禅師『永平広録』巻7-497上堂


拙僧つらつら鑑みるに、ここに見える道元禅師による達磨大師への評価は、慎重に扱われるべきである。まず、冒頭の部分は、達磨大師がインドから中国に来て、嵩山に独坐した様子を讃え、その法が天下に広まり、吾が日本にも伝来したことを示された一節である。

そこで、問題はそれ以降の説示であって、道元禅師は達磨大師が中国に来たことの意義とは、「戒定慧の本主を感得」するようなもので、それは民が王を得るほどの価値があるという。道元禅師が達磨大師を戒定慧三学の全てに対して尊崇したというのは、果たしてどういう事情があるのだろうか?

以前から、道元禅師が禅宗呼称を忌避した話というのは、よく知られていると思うのだが、何故禅宗呼称を忌避したかといえば、内面的なことをいえば、釈尊から摩訶迦葉尊者が受け嗣ぎ、その後の歴代の祖師が嫡伝してきた「正法眼蔵涅槃妙心」とは、普遍的事象であって、よって禅宗という局限化を否定したのではないか?と単純に思っていた。

しかし、昨今では、宋代の中国仏教の様子も分かってきて、いわゆる律宗・禅宗・教宗という大きな三派に分かれつつも、お互いに影響を受けつつ、総合的に学ばれていたというのである。つまり、禅宗の僧侶も、律・教の学びを行っていたのであり、また、この三派を単純化すれば、戒定慧の三学に準えることも出来るだろう。

道元禅師は、達磨大師への顕彰という文脈を用いつつも、そのような三派を統合する立場としての正法保持者たる祖師を顕彰していた可能性があり、その意味で道元禅師御自身も単純な「禅僧」としてのみ考えることは出来ないように思うわけである。

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