それで、今年はたまたま入手できた『臘八示衆』(貝葉書院・年代不明なるも古い版本)を学んでみようと思う。本書に収録される提唱をされたのは、臨済宗妙心寺派の白隠慧鶴禅師(1686~1769)の弟子である東嶺円慈禅師(1721~1792)のようである。当方では、版本が手に入った御縁を大事に、どこまでも当方自身の参究を願って学ぶものである。解釈についても、独自の内容となると思うが、御寛恕願いたい。
第五夜示衆に曰く、
所謂接心は、長期百二十日、中期九十日、下期八十日なり。剋期決定して、大事を明めんと欲す、故に一衆、戸外に出ざる、況んや雑談をや。参禅は只但勇猛の一機のみ。
汝等、聞かずをや。近頃、菴原に平四郎といふもの有り、不動尊の石像を彫刻して、以て吉原山中瀑布の処に安置す。忽ち瀑水の漲落するを覧るに、水泡珠を跳して、前泡・後泡、或いは流れること一尺にして消し去り、或いは二尺・三尺にして消し去り、乃至、二間・三間にして、消し尽く。宿縁の感ずる所、竟に世間の無常、都て水泡の如くなることを覚知す。殆ど一身に逼って安処するに堪えず。
偶たま人の読むを聴くに、沢水法語を読むで曰く、勇猛の衆生の為には成仏一念に在り、懈怠の衆生の為には涅槃三祇に亘る、と。
因りて、忽ち大憤志を発して、独り浴室に入て、堅く戸牖を鎖し、脊梁骨を豎起し、両拳を握り、双眼を瞪し純一に坐禅す。
妄想・魔境、蜂午紛起して、法戦一場して、終に断命根を得て、深く無相定に入る。天明に及で鳥雀の舎を繞りて啼くを聞て、自ら全身を求むるに、終に得べからず。唯だ両眼脱出して地上に在ることを看る。須臾にして忽ち爪際の痛を覚て、両眼帰位し、四支起つことを獲たり。
是の如く三夜、坐起一に前の如し。第三日の朝に及で、面を洗て庭樹を視るに、大に平日の所見に異なり。甚だ奇異と為す。仍て隣僧に問ふ、総て弁ぜす。
因に鵠林に見んと欲するに、轎を舁て薩埵嶺を踰ふ。子浦の風景を眺望して、始て知る、先に得る所は草木国土悉皆成仏底の端的なることを。径に鵠林を見るに、屡しば炉鞴に入て、数段の因縁を透過す。
彼は是れ一箇の凡夫なり。未だ曾て参禅の事を知らず。然れども纔かに両三夜にして、是の如き事を証す。唯だ勇猛の一機、妄想と相い戦て、勝つことを得るものなり。汝等、何ぞ勇猛の憤志を起こさざるや。
版本『臘八示衆』2丁裏~3丁裏、原典に従って訓読、段落は当方が付す
第5日目の提唱の主眼は、「参禅はただ勇猛の一機のみ」ということである。冒頭には、「接心」についての話で、長期・中期・下期という区分があって、120日、90日、80日とあるが、これは安居の期間などを意味しているのだろうか?一般的には「九旬安居」ではあるが、「閏月」の存在などで120日になったりする。80日は良く分からない。ただ、そういった期間の中で、しっかりと大事を明らかにするために、戸の外に出ず、雑談もせず、ただ勇猛なることを願うという。
ところで、菴原平四郎という登場人物について、白隠禅師の法語の中に出てくるそうだが、現段階で確認していない。本人の大悟に至る説話になっているようで、後は全てその話となっている。具体的には、まず吉原山中の滝(瀑布)に、不動尊の石像を安置し、瀑布が落ちている様子を見ると、水しぶきが激しく流れている様子を見て、世間の無常を観じたという。
それから、たまたま誰かが『澤水法語(澤水仮名法語)』を読んでいるのを聞いて、「勇猛なる衆生の成仏はただ一念にあるが、懈怠なる衆生の涅槃は三祇という無限の時間の先にある」という内容から、忽ち「大憤志」を起こして浴室に入り、背骨を立てて、拳を握り、純一に坐禅したという。妄想や魔境なども現れて、法戦一場したそうだが、命根を断ち切って、無相定に入った。その後、夜が明けて鳥の声を聴いたが、自らの全身が無い感覚に陥った。眼だけが抜け出て地上にあることを見るような状態であった。しかし、すぐに爪際の痛みを覚えると、両眼が戻り、立つことが出来たという。
このように、3日の間、坐禅して立ち上がる時の様子は同じであった。しかし、3日目の朝、顔を洗って庭の樹を見ると、それまでの見た目と変わった様子だったので、隣の僧侶に尋ねたが、理解されなかったという。そこで、鵠林(白隠禅師のこと)に相見しようと、山を越えて歩いていたところ、自らが得たのは草木国土悉皆成仏の境涯であったことを悟り、その後は白隠禅師の下で数段の因縁を透過したという。
そこで、この日の提唱の締めくくりとして、まず平四郎自身は凡夫であったが、それまで参禅のことなど知らなかったが、たった2~3日勇猛に坐禅しながら、妄想と戦い、勝つことを得た。よって、勇猛の憤志を起こさないことがあってはならないと示されたのである。
ところで、引用された『澤水法語』の文章だが、当方の拙い調査では、見出せなかった。それから、同じ文章としては、『宗鏡録』巻17で「夫れ成仏の理、或いは一念と云い、或いは三祇と云う。未審し、定めて何れの文を取るや。以て後学と印す」という一節があり、それへの応答として「答う、成仏の旨、且く時劫、遅速の教に非ず。権宜に属在す。故に起信論に明かすに、勇猛の衆生の為は、成仏は一念に在り。懈怠の者の為には、得果するに須らく三祇に満ちるべし。但だ形、教跡の言なり、尽く方便と成る」とあって、先ほどの『澤水法語』はここの引用のようであるが、法語の方には文章を見出せなかった。
ただ、勇猛なる志が肝心だということを知らしめるのに大切な提唱であった。
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