・弓道の日(有限会社猪飼弓具店)
それで、弓道と聞くと思い出すことがある。
ゆえいかんとなれば、菩提心をおこし、仏道修行におもむくのちよりは、難行をねんごろにおこなふとき、おこなふといへども百行に一当なし。しかあれども、或従知識・或従経巻して、やうやくあたることをうるなり。いまの一当は、むかしの百不当のちからなり、百不当の一老なり。聞教・修道・得証、みなかくのごとし。きのふの説心説性は百不当なりといへども、きのふの説心説性の百不当、たちまちに今日の一当なり。行仏道の初心のとき、未練にして通達せざればとて、仏道をすてて余道をへて仏道をうることなし。仏道修行の始終に達せざるともがら、この通塞の道理なることを、あきらめがたし。
道元禅師『正法眼蔵』「説心説性」巻
拙僧がとても大好きな一節で、ここを学びの基本としているのだが、ここでは弓で矢を的に当てることを喩えに、仏道修行の実際を表現したものである。意義としては、菩提心を発して、仏道修行に赴いてからは、喩え、難行を懇ろに行ったとしても、百行(数多くの修行)しても一当も無いという。そうであっても、繰り返し知識(指導者)・経巻に学んで、ようやく(だんだんと、次第に)仏道に当たるという。
そして、まさに一当した時は、昔の百行の百不当の力であったという。その意味で「百不当の一老なり」とされたが、この意味の「老」は、仏道を得た先生を指す。そして、教えを聞き、仏道を修め、証を得るという様子も、皆「百不当の一老」なのである。昨日、説心説性して仏道を得られず百不当だったとしても、昨日の説心説性の百不当が、直ちに今日の一当となったのである。
そのため、道元禅師は仏道を行う初心であったとしても、昨日の説心説性は、今日の一当となるのだから、未だ鍛錬が至らずに、仏道に通達しないからといっても、仏道を捨てて余道に行ってしまえば、仏道を得ることが無い。仏道修行の始終に達しない者は、この全体に通じる道理を、明らかにすることは出来ないとしている。何故ならば、失敗を繰り返しても、諦めないからこそ成功に至るという。
幾ら当てようとしても当たらない。しかし、その当たらない経緯が無ければ、絶対に当たらないのである。
これが、実際の弓道を歩む人達の心持ちかは知らないが、少なくとも仏道とは上記の通りに学ばれ、当たるものである。そういえば、この一節について、道元禅師の直弟子は、以下のように註釈している。
是又御釈に分明也、無殊子細、をこなふと云へども、無尽の難行苦行すればとて、必やがてさとり知事なし、ただ或從知識・或從経巻して、積功累徳するとき、漸あたる事をうるなり、
『正法眼蔵抄』「説心説性」篇
先ほどの、道元禅師の一節を、上記の道理をもって解釈されている。もちろん、先の一節は、「御釈に分明也」とあるように、余分な解説は要らないという。しかし、無尽の難行苦行については、やがて(すぐに)悟りを知ることが無いという。一方で、或從知識・或從経巻して、積功累徳する時に、次第に仏道に当たるという。
つまり、ここでは積功累徳という繰り返しの修行が必要だとしているのである。これもまた、頓悟・漸悟という区分を超えた修行観である。
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