そこで、拙僧つらつら鑑みるに、以前の臘八摂心で、道元禅師の『普勧坐禅儀』(流布本)について、様々な解説を行ったのだが、その際には参照出来なかった、巨海東流禅師『普勧坐禅儀述解』について、嘉永7年(1845)の写本を入手したので、参究することとした。なお、引用に際しては、カナをかなにするなど見易く改め、誤字なども適宜修正した。
普勧坐禅儀 観音導利院興聖護国禅寺 沙門道元 撰述
扨先つ普勧と云二字は大般若五百二十五に仏告善現如是法門は諸の菩薩若は利根鈍根皆な悟入して無障無碍とある、因之故に文中にも不論上知下愚と有なれば冷暖自知蔵無処じや、故に普勧の広こと知べし、此意を不知異行の坐を勧るは、祖師の恩を知らざる不孝の子孫と云ものじや、
坐禅儀 坐禅とは字書に、禅は呈延の切静なりと有て、静に坐すると云こと、儀は只管打坐して禅定三昧の安楽を得る儀式作法の軌り手本と云義なり、又坐と云に色々あり、凡夫は色界の四禅あり、声聞や縁覚は四諦十二因縁なり、道家は打坐と云、儒家は静坐と云、神道は静心と云也
観音導利院の四字は古の極楽寺のときの院号なり
興聖宝林禅寺は后に加ゑらる、此作は興聖寺まだ建立なきときなり、興聖は支那径山の寺号なり、宝林は曹渓の寺号、此を宋で始て案せられた、
沙門は此に勤息と云、勤善息悪の義にて出家の都名なり、
道元 此の諱の両字は華厳経六賢首品に曰、信為道元功徳の母、一切の諸法を増長す、とある、此文に因て案せらるゝなり、
撰は字典に造也集也述也と有て、都て属辞記事曰撰と註せり、此坐禅儀の始より終まで上を承て下を起し段々に糸をくり出す羊に、次第々々に撰られし故に云なり、
2丁表~3丁表
上記一節は、冒頭の「普勧坐禅儀 観音導利院興聖護国禅寺 沙門道元 撰述」について解説したものである。なお、珍しいと思われるのは、撰述された寺院名で、本書では「観音導利院興聖護国禅寺」としている。一般的には、「観音導利興聖宝林寺」であるけれども、金沢文庫所蔵『真字正法眼蔵』や、『重雲堂式』などでは「護国」名称を用いるので、全く無いわけではない。また、栄西禅師は「興禅護国」だったが、道元禅師は「興聖護国」という類似した思想を持っておられたことも知られるのである。ただ、註釈自体は「宝林」でしておられるので、何らかの誤記の可能性は残る。
さて、註釈は「普勧」から始まっている。典拠としては『大般若経』巻525「第三分方便善巧品第二十六之三」を挙げているが、これは面山瑞方禅師『普勧坐禅儀聞解』と同じ見解であるし、前後の主旨もほぼ同じなので、本書の註釈態度は『聞解』を下敷きに行われていることが分かる。一方で、相違点も必ずあると思われるので、それを丹念に読み解くことで巨海禅師の立場も明らかに出来るであろう。
ただし、実際のところ、ザッと確認した限りではあるが、ほぼ『聞解』である。最初の一節では、「冷暖自知」を挙げているところが、巨海禅師の特徴だろうか。
続く内容も、ほぼ『聞解』である。とはいえ、微妙に略されているのが、非常に気になる。それから、『聞解』同様に「興聖宝林禅寺は后に加ゑらる、此作は興聖寺まだ建立なきときなり」とされるが、これは面山禅師以来の誤読である。おそらくは、『弁道話』で示された嘉禄本を想定して、興聖寺建立以前に書かれたという立場を採っているが、実際には書き直されて、署名も改められたと見るのが正しい。
他は、『聞解』も合わせて見ると、良く分かると思う。
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