つらつら日暮らし

『カルマ』という曲への雑感

教えている学生相手に「業(カルマ)」という言葉(本来は、行為という意味で、そこに、行為による結果などの意味も付加され、さらに、それら行為とその結果の前後関係をつなぐ構造も導入された)について、もし知っていれば、その内容を書いて欲しいという課題を出したところ、その教場にいた、約4割の生徒が知っていた。そして、その内容については、「罪」「悪事」などに結びつけて理解している例が一定量見られた。この辺は、本来の「業」の概念に対してやや偏りがあるが、現在の用例としてはその傾向であると思われるため、不自然だとは思えなかった。

その中で、「BUMP OF CHICKEN」というバンドの曲名として知っている、という意見があった。よって、その曲を見ながら、思うところを書いてみたい。聞きたい人は、以下の映像からどうぞ。

BUMP OF CHICKEN『カルマ』


それでまぁ、歌詞には「記憶」だとか、「生まれた意味」だとか、そういう語句が見えるので、「カルマ」の意味としては基本、前世との繋がりを説くものなのだろうし、また、今ここにいる自分という存在に意味を見出すための機能も持っていると理解できようか。

更には、「未来」についての語句も確認できるのだが、「約束が交わされる」とか「約束が果たされる」というような語句も見えるので、現実に於ける何らかの条件を果たした際の、将来についての繋がりもまた、「カルマ」という語句には込められているといえよう。ただし、この「前後関係」について、特段指摘があるわけではないので、過去⇒現在⇒未来という単純な前後関係のみが想定されていることになる。

また、具体的に「カルマ」という歌詞が出ているのは、「鏡なんだ 僕ら互いに それぞれのカルマを 映す為の」という部分だけである。これはまた、難しい。「鏡」の譬えというのは、色々な意味を込めることが出来る。ただし、この場合には、それぞれのカルマを映すための鏡だということは、お互いのカルマが相互に影響するという意味では無いと思われる。あくまでも、お互いはお互いのカルマのみに関わるのであろう。

その意味では、単純な自業自得(いわゆるの四字熟語的な意味ではなくて、仏教的なそれ)であるとは思う。相手を見ていると、自分のカルマが分かるということになるのだろう。それくらい、似たような人生・人格を持っているというべきか、或いは、お互いそれくらい想い合っていて、繋がるというような思いを込めているのだろう(実際に、歌詞の終わりには、「一つになる」というような下りも見える)。

個人的に、「カルマ」という用語をファッションのようにして使う場合には、注意が必要だと思っている。まぁ、今の若い世代にはほとんど関係ないとは思いたいところだが、かつてのオウム真理教の内部では、「カルマ」が余りに安易に使われすぎていて、相手の人生を総括できてしまうような言葉であった。「カルマが悪い」などと言えば、その個人の存在全体が悪しき存在として規定され、よって、その解放が宗教的善意(あくまでも、オウム的論理としての善であり、世間のそれとは異なる)として取り沙汰されることになり、「ポア」と呼ばれた殺人が肯定されるわけである。

だから心配したのだが、この歌詞からは、お互いのカルマにまで介入することを望んではおらず、ただ、自らのカルマのあり方を確認するだけであったように思われるし、また、お互いの存在を理解し合ったり、その後の深い関係を定義するために用いているように思われた。

まぁ、ここだけを見れば、それこそ「前世からのストーカー?」とも思ってしまった、RADWIMPSの『前前前世』よりも余程健全だと思われた。そのRADWIMPSの曲については、別の機会に論じてみたい。

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