よって、そろそろ次の連載を、と思いながら経過する時間の早いこと早いこと。でも、今日からまた、貝原益軒(1630~1714)が1712年に編集した『養生訓』(全8巻)の連載を再開いたします。それで、簡単に『養生訓』の章立て構成を示しておきますが、ご覧の通り、第四巻までは見終わっているのです。
●第一巻
総論 上
●第二巻
総論 下
●第三巻
飲食 上
●第四巻
飲食 下
飲酒
飲茶 煙草附
慎色慾
●第五巻
五官(※ここから再開)
二便
洗浴
●第六巻
慎病
択医
●第七巻
用薬
●第八巻
養老
育幼
鍼
灸法
そこで、第五巻から見始めたいと思います。ここは、それこそ我々の身体器官に関わるところや排泄に関する身近なお話しから始まり、「洗浴」「択医」「養老」「育幼」などは、皆さまにも大いに役立つかと思います。立場や資格上、拙僧には申し上げられない「医学的見解」ではなく、『養生訓』はあくまでも「日常的な心掛け」などの実践法なので・・・
それで、改めて第五巻の「五官」から、拙僧的に興味がある文章を見ていきたいと思います。
心は人の身体の主君である。よって、(心は別に)天君というのである。(心は我々の)思うことをつかさどるものである。耳・目・口・鼻・形というこの五つは、きくこと、見ること、かぐこと、物をいうこと、物を食うこと、うごくこと、と各おのその事をつかさどる職分があるからこそ、五官というのである。
(この五官は)心がつかうものであり、心は(五官より)内にあって、五官をつかさどっている。よくそのことを思って、五官の是非を正すべきである。天君によって五官をつかうことは、正しいことである。五官によって天君をつかうことは、(道理と)逆さまである。心は身体の主なのだから、(心を)安楽にするべきで、苦しめてはならない。五官は天君の命をうけて、各おのの官職をよくつとめるべきで、恣ままにしてはならない。
岩波文庫『養生訓・和俗童子訓』101頁、拙僧ヘタレ訳
私ども仏教徒からしますと、心が中心だというのは当たり前ではありますが、ここで益軒が指摘している「心」というのは、五官の奥にあるものという位置付けのようなので、いわば六識で考えれば「意識」ということになりそうです。意識から始まって、七識くらいは含まれていそうです。
とはいえ、「心」については、司るものということから、「天君」という言い方をしていて、この「君」に対する「官(官僚)」という役割分担が名前の由来としています。そして、「心」のままに五官を働かせるのが良いとしています。そうなると、拙僧のような仏教徒からしますと、仏教ではあくまでも、「心」とは統御された良い状態で無ければならないとか考えますし、ややもすると、「心を師としてはならない、むしろ心の師となれ」という風な言い方までされます。
つまり、益軒がどういうつもりで「天君」とまで言ったのかが気になるのであります。あるいは、「心」を「天君」ならしめるのはどういう意味なのか?とも思います。よって、拙僧つらつら鑑みるに、その辺がどう示されていたのか?余程気をつけて読んでいかねばならないなぁ、と思うのです。
今回は、再開第1回ということで簡単にしましたが、次回はまた、複数の項目を採り上げつつ、色々と見ていきたいと思います。
※この連載記事は、「かつて養生に関わる説でいわれていたこと」を、文献的に紹介しているのみであり、実際の医学的効能などを保証する目的で書いているのではありません(それは、医師ではないので出来ません)。その辺は能く能くご理解の上、ご覧下さいますようお願い申し上げます。
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tenjin95
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