さて此とき浄飯王は国中のすぐれたる者百五人を撰み沙門となし、又迦葉らが有状を見る所が至て形が陋げに見へて、釈迦が夫らを従へておつては尊げにみへぬとて、我親族の内からうるわしき者を撰み釈迦の弟子につけたとも有でござる。
『平田先生講説 出定笑語(外三篇)』72頁
これはまず、釈尊にとって最初の弟子となった五比丘についての話題かと思いきや、そうではなかったようだ。釈尊の実父である浄飯王が沙門として選んだのは「105人」だったとあるのだが、典拠は良く分からない。ただ、近いのかな?と思われる文脈としては、以下の一節を見出した。
仏、初めて迦毘羅婆国に遊ぶが如きは、千二百五十比丘と倶なりき。悉く是れ梵志の身なり。火を供養する故に、形容憔悴し、食を絶って苦行する故に、膚体痩黒す。
浄飯王、心に念じて言わく、「我が子の侍従、復た心は浄清潔なりと雖も、並べて容貌無し。我れ当に累重して子孫多き者の家より一人を択取して出し、仏の弟子と為すべし」。
是の如く思惟し已りて、勅を国中に下し、諸釈の貴戚子弟より簡択し、応に之の身を書して、皆な出家せしむ。是の時、斛飯王子の提婆達多、出家学道す。六万法聚を誦し、精進修行し、十二年に満つ。
『大智度論』巻14「釈初品中羼提波羅蜜義第二十四」
「105人」の根拠は良く分からなかったが、篤胤が示す「又迦葉らが有状を見る所が至て形が陋げに見へて」というのは、「我が子の侍従、復た心は浄清潔なりと雖も、並べて容貌無し」に該当する。それから、『大智度論』では提婆達多の出家についても言及しているが、篤胤も実は、同様であった。
又浄飯王が弟に白飯王と云がある。これに子が二人ありて第一の子を阿難と云、是が物覚がよく釈迦が生涯にいつた言どもお覚へいたといふ男でござる。これも此とき出家させたでござる。其つぎお調達といふ、是がいわゆる提婆達多でござる。これがとかく釈迦のすることが気に入らぬと云て、生がい争つた男でござる。
『平田先生講説 出定笑語(外三篇)』72頁
しかし、この箇所を読んで、少し微妙になった。『大智度論』ではこの辺、以下のように記している。
浄飯王に二子有り、仏、難陀。
白飯王に二子有り、跋提、提沙。
斛飯王に二子有り、提婆達多、阿難。
甘露飯王に二子有り、摩訶男、阿泥盧豆。
『大智度論』巻3「共摩訶比丘僧釈論第六」
・・・えっと、篤胤は阿難と提婆達多を、「白飯王」の子だとしているが、『大智度論』では「斛飯王」だとしているので、合わない。よって、その点から調べ直すと、以下の一節を見出した。
白飯王〈浄飯王の第二弟なり〉に二子有り。
一には阿難と名づく、身長一丈五尺三寸なり。
一には調達と名づく、身長一丈五尺四寸なり〈大智論に云く、跋提沙十二遊経は甘露浄王の長子調達、少子阿難なり〉。
白浄王、仏の所に往至して、迦葉の眷属の形貌の醜陋なるを見て、即ち宗室を集めて曰く、阿夷相言く、仏出家せざれば当に聖王なるべし。王の四天下、左右の侍従、極めて当に端正なるべし。今、諸もろの弟子、大いに形観無し。若し道儀の為に足るを望み欲する者は、僧の数を備え世尊を光暉せんと聴せ」。
咸く言わく、大善なり。
『経律異相』巻7「調達出家九」
訓読は全く自身が無い。ただし、この一節からは、先に挙げた篤胤の説に関して言えば、釈尊の弟子達の姿を批判したのが白飯王だったとしており、篤胤の言う浄飯王ではないものの、内容はそれなりに共通している。ただし、篤胤は長男を阿難、次男を提婆達多にしているので、厳密には記述が合わない。そのため、おそらくはもっと正しい典拠があることを思いつつも、今回記事を書くのに足りなかったので、とりあえずここまでにしておく。また、篤胤は提婆達多に興味を持っているようなので、それはまた記事を改めて見てみたい。
【参考文献】
・鷲尾順敬編『平田先生講説 出定笑語(外三篇)』(東方書院・日本思想闘諍史料、昭和5[1930]年)
・宝松岩雄編『平田翁講演集』(法文館書店、大正2[1913]年)
・平田篤胤講演『出定笑語(本編4冊・附録3冊)』版本・刊記無し
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