つらつら日暮らし

『緇門警訓』に見る坐禅の説示4(令和4年度臘八摂心短期連載4)

令和4年度臘八摂心3日目である。今日からは、『龍門仏眼遠禅師坐禅銘』を見ていきたいと思う。なお、この著者は仏眼清遠禅師(1067~1120、臨済宗楊岐派・五祖法演禅師の法嗣)という禅僧である。『勅修百丈清規』を見ていると、五祖法演禅師が仏眼清遠禅師を書記に任命した話などが載っている。また、同じ『緇門警訓』には、「三自省」という偈頌も載っているのだが、それも機会があれば見ていきたいと思う。

しかし、今回からは『坐禅銘』である。

 心光虚映にして、体、偏円を絶す。
 金波匝匝、動寂常に禅なり。
 念起念滅、用いずして止絶す。
 任運滔滔、何ぞ曾て起滅せん。
 起滅寂滅、大迦葉現ず。
 坐臥経行、未だ嘗て間歇せず。
    『緇門警訓』巻上


この「心光虚映」というイメージが、実は捉えにくいと思う。我々自身の意識とは、それこそ現象学で解明したように、常に「何かに対しての意識」である。ところが、その「何かに対して」の部分を無効化することにより、「心光虚映」とはなる。虚だからこそ、一切の事象を分け隔て無く照らすのである。

よって、体(本質)は、偏や円といった状態を絶するのである。

金波というのは、日光に照らされて輝く波を指すが、それが周囲を巡り、動も寂も常に禅(究極の静寂)となる。また、念については、起滅を用いずに、徹底して「止絶」するという。それは、波のあり方に任せ切っているので、滔々として働き、起滅という働きを用いる必要がないのである。

ところで、よく分からないのが、「起滅寂滅、大迦葉現ず」の部分であるが、これは禅宗の相伝に関わることか。つまり、禅宗では大迦葉(摩訶迦葉)尊者は「是に於いてか大迦葉、仏の袈裟を持し、鶏足山中に於いて、寂滅定に入り、慈氏の下生を待つ」(『人天眼目』)などの記述が知られている。おそらくは、この慈氏(弥勒如来)の成道を待っている様子を示したものか。死んでいるわけでは無く、しかし、寂滅の究極に生きる様子である。

そして、坐臥経行という四威儀は、途絶えることがないのである

今回、この『坐禅銘』が表現しようとしていることは、一切の事象を分け隔て無く見つつ、そこに様々な働きを感じ取っていくという、相矛盾した心と観測の動きである。これは、更に続く文章を学ぶことで、明らかにしていきたい。

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