しかし、今回からは『坐禅銘』である。
心光虚映にして、体、偏円を絶す。
金波匝匝、動寂常に禅なり。
念起念滅、用いずして止絶す。
任運滔滔、何ぞ曾て起滅せん。
起滅寂滅、大迦葉現ず。
坐臥経行、未だ嘗て間歇せず。
『緇門警訓』巻上
この「心光虚映」というイメージが、実は捉えにくいと思う。我々自身の意識とは、それこそ現象学で解明したように、常に「何かに対しての意識」である。ところが、その「何かに対して」の部分を無効化することにより、「心光虚映」とはなる。虚だからこそ、一切の事象を分け隔て無く照らすのである。
よって、体(本質)は、偏や円といった状態を絶するのである。
金波というのは、日光に照らされて輝く波を指すが、それが周囲を巡り、動も寂も常に禅(究極の静寂)となる。また、念については、起滅を用いずに、徹底して「止絶」するという。それは、波のあり方に任せ切っているので、滔々として働き、起滅という働きを用いる必要がないのである。
ところで、よく分からないのが、「起滅寂滅、大迦葉現ず」の部分であるが、これは禅宗の相伝に関わることか。つまり、禅宗では大迦葉(摩訶迦葉)尊者は「是に於いてか大迦葉、仏の袈裟を持し、鶏足山中に於いて、寂滅定に入り、慈氏の下生を待つ」(『人天眼目』)などの記述が知られている。おそらくは、この慈氏(弥勒如来)の成道を待っている様子を示したものか。死んでいるわけでは無く、しかし、寂滅の究極に生きる様子である。
そして、坐臥経行という四威儀は、途絶えることがないのである
今回、この『坐禅銘』が表現しようとしていることは、一切の事象を分け隔て無く見つつ、そこに様々な働きを感じ取っていくという、相矛盾した心と観測の動きである。これは、更に続く文章を学ぶことで、明らかにしていきたい。
#仏教
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