第三段
上人はもと天台の真言をならひ給へり。しかるを、中河の阿闍梨実範ふかく上人の法器を感して、許可潅頂をさづけ、宗の大事のこりなくこれをつたふ。かの実範は当時の流、中院の阿闍梨教真潅頂の弟子、かねて勧修寺の僧正範俊を師とす。ただ事相・教相に達せるのみならず、他宗の法門またくらからざりけり。
しかるに上人を帰依のあまり、後には二字をたてまつり、鑑真和尚相伝の戒をうく、
上人は円頓の戒法を宗とし給へりき、しかるに円戒をさしをきて、かの相伝の戒をうけられける、さだめてふかき心侍けんかし、
『黒谷上人伝絵詞』第5巻、カナをかなにし漢字を現在通用のものに改める
これは、東大寺の戒壇院を中興した中川実範上人(?~1144)が法然上人(1133~1212)に対して、様々な法門を授け、中でも、鑑真和上以来の声聞戒(比丘戒)を授けたという話となっている。なお、年齢からすれば、法然上人の12歳の時まで、実範上人は生きておられたので、関わりがあるのかな?と思いきや、かなり厳しいという話もある。
例えば、法然上人が仏門に入ったのは、1141年の時、地元での土地争いで両親が殺害されてからだとされているが、実際のところ、比叡山などに登るのは、1145年以降だとされており、しかも、出家したのは1147年であるとされる。そうなると、実範上人と出会ったかどうかも分からないといえるが、実は、以下のような話も残っている。
上人のたまはく、学問ははしめて見たつるは、きはめて大事也。師の説を伝習はやすきなり。しかるに我は諸宗にみなみづから章疏を見て心えたり。戒律にも中の川の少将の上人、偸蘭刃といふ、名目ばかりぞきゝつたへたる、さらではみな見いだしたるなり。
同上・第一段
ただし、これは、章疏を見たという話になっており、中川少将(実範)上人の教えを聞いたという話ではないが、戒律に関する先達として、尊崇していたのだろうか。
なお、法然上人自身は、先に挙げたように、円頓戒を相承され、また、重視もしていたはずで、それはまた、念仏とは別のことであったはずである。或いは、だからこそ、円頓戒を差し置いて声聞戒を受けたのは、定めて深い心があったはずだとしているのである。しかし、本当に声聞戒を受けたのかどうかも分からない。
当時、京周辺で声聞戒を受けるのであれば、当然に東大寺が考えつくが、法然上人は後に東大寺の大勧進に選ばれそうになった、とかいう話もあるそうだが、華厳宗という位置付けで、戒壇院ばかりに注目するわけにはいかないから、あってもおかしくない、ということだろうか(なお、その時には重源にその座を譲った)。
実際のところ、受けていたのは、比叡山での円頓戒だと思われ、更に黒谷に移ってからは、師である慈眼房叡空上人の下でも戒律護持の生活をしたとされるが、声聞戒についての考え、どこかで著しておられるのだろうか。機会を得て学んでみたい。
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