大科第七 問遮(続き)
六には、羯磨転法輪僧を破るや、否や。
答えて曰く、否なり。
私に云く、羯磨転法輪僧と云うは、転は能説の語なり。法輪と云うは、所説の法なり。或いは口説、或いは身説、機に随て皆証益を蒙る、既に説法して、他をして得益せしむる僧、之を殺すの罪は、仏の生身を殺すに同じ、豈に此の罪、輙く滅せんや。若し其の聴へ有る人は、出壇の坐列すべからざるなり。
『続浄土宗全書』巻15・78頁、訓読は原典に従いつつ拙僧
いわゆる破僧罪である。この辺については以前、【提婆達多の破僧罪と根本分裂は何が違うのか?】という記事を書いたこともあるので、ご覧いただければと思う。「破僧罪」といっても、「破羯磨僧」と「破法輪僧」の違いがあるというが、本書については「羯磨転法輪僧」と一緒に扱っている。
それで、ちょっと確認したが、「破羯磨転法輪僧」という表現を考えると、結局本書の「七逆罪」は『梵網経』巻下「第四十摂化漏失戒」を典拠としていることが分かる。
そう思うと、ここでの「私に云く」は、部分的ではあるが『梵網経』への註釈という位置付けも可能となる。しかし、人々を導く僧侶を殺害することは、仏の生身を殺すのと同じであり、その罪は容易くは滅しないとしている。この辺は、続く「殺聖人」の項目と、「懺悔」の項目でも見ておきたい。ただ、上記の内容から、三宝を全て同じ扱いをしていることになるのだろう。
また、末尾の「出壇の坐」だが、戒壇を出た後の僧の坐席だという。その辺は、入壇に関する話が後段に出ているので、その際に見ることが出来よう。
【参考資料】
・宗書保存会『続浄土宗全書』巻15、大正14年
・浄土布薩式(新編浄土宗大辞典web版)
#仏教
最近の「仏教・禅宗・曹洞宗」カテゴリーもっと見る
最近の記事
カテゴリー
バックナンバー
2016年
人気記事