つらつら日暮らし

荻生徂来『政談』に見る仏教教団統制法について

日本に於いては本来、僧侶・尼僧の統制に「僧尼令」が定められ、その上で出家者の振る舞いなどが規定されていたのだが、10世紀を経る頃には律令制が崩壊し、実質的に統制が取れなくなっていたという。然るに、江戸時代の儒学者である荻生徂来は、改めて国家による僧尼への統制を考えており、その結果、以下の主張が行われた。

 度牒再興せずんば、出家の治めはなりがたかるべし。古は三戒壇なれども、今は諸宗各別になりたる故、一宗一宗の本山に戒壇を立て、それより度牒を出すべき事也。第一僧に紛れ者あるまじ。出家の数も減少すべし。戒律の方より出家の奢やみ、殊勝になるべし。但し戒律を律宗の如くせば、諸宗に通用し難かるべし。律宗の規則は仏制なれども、時代の風俗殊の外に替り、国も別なるを、ただ形ばかり守りたるもの故、かえって偽り多し。ただ当時の風俗に合せて大乗戒を用い、奢をしずめ、僧の悪風を止むる事を主とすべし。これは学徳ある僧へ御相談ありて取立てさせ、その僧を早く越して本寺へ住持させ、国師・禅師・僧正にもなして導かせたらば速かに直るべき事也。
 総じて僧の治めは俗人よりはなりがたし。類の違いたるもの故に、公儀の仰付にても、俗人の下知は聞かぬもの也。祐天などのようなる僧は、人の帰依したる僧なれども、無学なる故、僧衆の方にては帰伏せず。学徳ありて、宗門の弊風を正したしを志したる僧を用うべき事なり。
    荻生徂来著・ 塩島仁吉校『政談(経済叢書)』経済雑誌社・1894年、306~307頁


まず、徂来は「度牒」発給について、それを再興しなければ、出家者を統治することが出来ないと述べているのである。かつての鑑真和上来日後、日本では奈良東大寺・下野薬師寺・筑前観世音寺の3箇寺に戒壇を設けて、出家者の数を統治していた。ところが、伝教大師最澄による建言などを受けて、比叡山に大乗戒壇の設置を認めて以来、徐々に規制緩和が進み、鎌倉仏教諸宗派に至っては、完全に独自に出家の制度を作るに至った。

そこで、徂来は、「一宗ごとの本山」にそれぞれ「戒壇」を立てて、そこから度牒を出すべきだとしたのである。おそらく、複数の大本山・総本山などを定めていた宗派では、「どこに戒壇を設置するのか?」で揉めた可能性はあるだろうが、徂来の言うことには一理ある。なお、その結果として、僧に「紛れ者(かつての言い方なら私度僧、自称僧侶のこと)」が出なくて済むといい、また、出家者の数も減少することになるだろうと予想している。

また、徂徠は戒律を学ぶようになれば、僧侶の奢り(余計な贅沢)も止んで、殊勝な振る舞いになることを期待している。この辺、徂来は基本、各階級に於ける「奢り」に基づく経済の無軌道な展開に疑義を呈しており、今回のもその基本線は堅持されている。

ところで、徂来の見識について改めて見直すようになったのは、ここで「律宗」に於ける律と、大乗菩薩戒に関する区別が正しく出来ているためであった。つまり、徂来はもし、出家を各宗派の本山に戒壇を置くことで統治するとしても、受ける戒律を「律宗」に準拠すれば、諸宗派での通用は難しいと述べているのである。また、律宗の『四分律』などが、「仏制」であることを良く承知していたようだが、一方で、時代の風俗(風習)は変化し、国もインドと日本の区別があるので、形ばかり守っても、誤った修行になる場合が多いとしている。この辺は「随方毘尼」の発想を採り入れていることが分かる。そこで、現在の風習に合わせて大乗戒を用い、とにかく奢りを鎮めて、僧侶の悪しき振る舞いを止めさせるべきだというのである。

その際には、各宗派に於いて、学徳ある僧侶を頼み、本山の住持とし、国師や禅師、僧正などの肩書を与えて指導させれば良いとしている。なるほど、これは確かに妙案かもしれない。

この件で、徂来は僧侶の統治は、俗人から行っても、上手く行かないことが指摘されている。公儀が幾ら言っても、俗人からの命令は聞かないとしている。確かに、仏教教団は伝統的に、権力構造からの離脱を目指し、かの中国であっても、王臣への不拝が取り沙汰されて、儒教も巻き込んだ大きな問題になったこともあった。そのため、伝統的に僧侶の中から、「僧官」のような立場の者を出させて、それに統治させたのである。江戸時代の法度なども、よくよく見てみると、最終的には本山や統治機関(曹洞宗ならば関三刹)などからの意見を受けつつ、一応幕府から下知を下し、最終的に、本山や統治期間から各寺院へ通達されるという手法を採った。

また、徂来の喩えで、祐天上人について出ているのは興味深い。かの、目黒区内に所在し、東急線の駅名にもなっている祐天寺の開山であり、浄土宗の僧侶として知られるが、その信心深さや霊験で評判になったのであった。しかし、祐天上人では、宗派内の他の者達が言うことを聞かないので、学徳ある僧侶に任せるべきだと徂来は述べたのであった。ところで、徂来の生没年は「1666~1728年」で、祐天上人は「1637~1718年」で重なっており、また、祐天上人は現在の千葉県内の寺院(檀林)に住持したこともあった。徂来も父親の関係で、一時期千葉県内に住んでいたことがあったので、様々なところでその評判を聞いていたか、何らかの知己があったものか。

ついでに、学徳ある僧侶に宗派の統治を任せるという発想については、曹洞宗の宗統復古運動などを見て批評まで行った徂来だけあって、もしかしたら卍山道白禅師や梅峰竺信禅師のような人をイメージしていたのかもしれない。

なお、徂来による曹洞宗の宗統復古運動の批評は、また記事を変えて採り上げたいと思っている。

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