つらつら日暮らし

前世も現世も『法華経』に生きる(私的法華驗記1)

『法華経』の信仰という言葉を聞くと、多くの人が日蓮聖人とか日蓮宗とか創価学会とかを思い出すと思うのですが、実際問題として、『法華経』信仰は、かの者達だけの独占事項ではございません。むしろ、大乗仏教の中で『法華経』が出来たという後から、続々とその教えに共感し、自らの支えにする方が多かったと言って良いでしょう。

ですから、そのような「『法華経』を信仰したために、○○の功徳があったのだ」というような記録が多数残されることになります。以下にそのような文献を挙げておきましょう。

・慧祥『弘賛法華伝』中国唐代の成立
・僧詳『法華伝記』中国唐代であると思われるが年代不明
・鎮源『大日本国法華経験記』日本長久年間(1040~1044)


これら3つは『大蔵経』などにも収録されているので、結構有名だと思います。他にも、たくさんの書物で『法華経』を信仰したために、良い結果があったことを示しています。逆に、『法華経』を信仰しなかったために悪い報いがあったことも示されています。まぁ、【仏教と護国】で示したように、大乗経典はどこか経典そのものを信仰しているような所がありますので、このような伝記も作成されたのでしょう。なお、今回から連載になる「私的法華驗記」という題名は最後の鎮源作の題名から拝借いたしました。少しくお付き合いいただければと思います。

さて、今回は第一回目なので、まずは『法華経』の有り難さを理解するということで、先の説話集と同じように『法華経』信仰が色濃く表れた『日本霊異記』から引用してみたいと思います。なんだか凄い話なんですよ。

●『日本霊異記』上巻-18

  法華経を暗記して唱えて、この世で不思議な結果を示した話 第18
 昔、大和国葛城上郡(現在の奈良県御所市)に、もっぱら『法華経』を唱えて修行している者がいた。丹治比氏の出である。この人は生まれながらに利口であり、8歳になる前に『法華経』をほとんど暗誦することが出来た。しかし、ただ一字だけは覚えることが出来なかった。20歳くらいになっても、その一字を覚えることは出来なかった。そこで、観音菩薩に祈って前世の罪を懺悔し、その罪悪の報いを免れようとした。
 すると、或る日夢を見た。その夢の中に、一人の人が現れて、「お前は、前世では、伊予国別郡の日下部にいた猿という者の子であった。そこでも『法華経』を良く暗誦していたが、灯火で経文の一字を焼いてしまったのだ。だから、その字だけは覚えることが出来なくなってしまった。すぐにその家に行ってみるとよい」と言った。不思議な夢だったので、親に「急な用事が出来て、伊予国まで行ってきたいと思う」と相談したところ、親はすぐに許してくれた。
 道中、道を聞きながら、目的地の猿の家に着いた。門を叩いて人を呼ぶと、一人の下女が出てきて、ニッコリ笑って家の中に駆け込んで、その家の妻に「門にお客さんが来ています。亡くなられたお子様にそっくりです」と言うではないか。その妻は、出て見ると、確かに死んだ我が子にそっくりであった。その夫も出てきて、非常に不思議がって「一体お前さんは、どこの人だ」と問うた。そこで、客は国や郡の名を答え、一方で、客の方も色々と質問したので、主人も詳しく自分の姓と名を紹介した。それは、夢の中で聞いたとおりの名前だったので、客は、この人達が自分の前世での両親であることが、ハッキリと分かり、改めてひざまずいて挨拶した。
 主人の猿もまた、いとおしく思って客を家の中に呼び入れ、客座にすわらせてじっと見つめては「ひょっとしたら、死んだ我が子の霊魂ではないかと思うほどです」と言った。客は、かつて夢の中で見たことを詳しく話し、ここにおられる老夫婦は、前世における自分の両親であると説明した。猿もまた、昔の因縁を話して「私の死んだ子の名前は、かくかくしかじかであり、住んでいたお堂はあそこで、読んでいた経本はこれですし、持っていた水瓶はこれです」と示した。客はこれを聞いて、先に死んだ子が住んでいたというお堂に入ると、『法華経』を手にとって開いた。確かに、覚えることが出来なかった文字のところが焼け失せていた。そこで、経典の一部を焼いてしまった前世の罪を悔い、焼けたところを修復すると、完全に覚えることが出来た。そこで、この親子は互いに顔を見合わせて、不思議がり、喜んだが、改めて親子の契りを結んで、その後は孝養を尽くしたのだった。
 批評して言うのは、「素晴らしいことだ、日下部氏は。お経を読み、仏道を求め、過去と現在に渡って『法華経』を読誦した。この世では2人の父親に孝養を尽くし、よい名声を後の世まで残した。これこそ、聖の行いであって、凡人ではない。まさに『法華経』の威光は素晴らしく、観音の威力の大きいことが、良く分かった」ということだ。
 『善悪因果経』にて「過去の原因を知ろうと思ったら、現在の結果を見るべきである。未来の報いを知ろうと思ったら、現在の行いを見るが良い」と言われているのは、このような話のことなのである。
    拙僧ヘタレ訳


さて、ここで不思議に思われるかもしれないなというのは、来世と言っても別世界に行ったわけではないということでしょうか?実は、このような「生まれ変わり」こそ正しいと言えましょう。あくまでも、この世界での往来なのです。ここに浄土とか、地獄とか、そういった別世界に赴くという考えが入ってくるのは、冥界観が複雑に整備されてくることと即応しているとされています。本来は49日間、中間的な存在として中有をさまよい、その後は別の存在として生まれ変わるのです。

そこで、今回の場合には、特に『法華経』を信じて学んでいた者が、前世で経典を焼いてしまったことから、その焼いた一字が覚えられないという「因果応報」が発生し、それを『法華経』の信仰によって知った主人公が、今度は『法華経』に出る観音菩薩の導きによって、経典を焼いた罪を懺悔して許されるという話です。しかも『法華経』信仰によって前世と後世両方の親に孝行を尽くすことが出来たという「特典」まで付いてきます。。。なんだか凄い話です。

拙僧的には、『法華経』という経典は、功徳と罪悪とが強く明記されていると思っておりますので、教団の設置も容易で、したがって歴史的に多くの信者を生んできたと見ています。したがって、今回のような「霊験記」も多く存在するのでしょう。現在にあっては、ただの不思議なおとぎ話に聞こえるかもしれませんが、それを含めてしばらくお付き合いいただきながら、『法華経』信仰という歴史的文脈を考えてみましょう。

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コメント一覧

tenjin95
@syousyu-wainai123753 > syousyu-wainai123753 さん

> 何でも、質問等に答える、削除等にも応える、等々、丁寧でへりくだっているように見せて、実際は、日蓮正宗信徒に向かっては、罵詈雑言、悪口罵詈の限りに驚くばかり。慇懃無礼とは、この事だ。どうせ削除に応ずるならば、このブログ事体を、全て消えて無くなれば良いのに、と思わず思ってしまった位。

それは、いきなり他人のブログにやって来て、その人が信じている宗派の悪口を書き殴っていくのは、日蓮正宗系くらいなので、どうしても対応は厳しくなりますよね。当方のコメント、罵詈雑言といわれるほどではないと思っているのですが、厳しく思えたのであれば、これまで拙ブログに寄せられた正宗系の方々のコメントが酷すぎましたね。

> それにしても、返信が、大部遅れに遅れたようだね。これら駄文を書くのに、淫祀邪教を司る僧が考慮に考慮を重ねて、やっと書いた風だね。即断即決も出来ない。かなりナイーブな、事共があったのかね。

いわれてみれば、確かに時間が掛かっていますね。何でしょうかね?ただ仕事が忙しかっただけだと思います。

> まあ、昔の記事に反応した、私も悪かったが、余りに気を私自身、悪くしたもんでね。それは、私も謝する次第ではある。

昔も昔、書いた本人も忘れるほどの昔の記事でしたね。『法華経』かなんかで、検索されましたか。

> ハッキリ言って、道元なんかに、「妙法蓮華経」をうんぬんして欲しくは無かったのが事実。

これは、なかなか興味深いご見解です。「信教の自由」に対する挑戦的言動ですね。人権を重視しないという、ファシスト的発想の表れでしょうか?

> あなたのは全て、知ったかぶりだ。私だって、日蓮大聖人の御書一巻くらい、既に読んでいる。正法眼蔵も、高校時代に、書店で岩波文庫のを買い求め、読んでいる。それらの本もすべて、謗法物として、お寺に預けた、捨てた。

確認ですが、『正法眼蔵』を高校時代に買い求めたようですが、読んで、捨てたのも高校時代ですか?いや、『正法眼蔵』は高校生には読めないですからね。もう少し時間を掛けて読めばまだ、会得することもあったでしょうに、残念ですね。

> 貴方は、無知の知を知らない。知ったかぶりと冒頭で言ったが、その通り、自身の限られた知識を振りかざし、ちっとも知識や智慧に対する、謙虚さ、謙譲さが一切ない。皆、当たり前だと思っている。

当方、文章では「当方、日蓮聖人が書かれたもの(残存する御真筆及び、写本のみ現存する遺文)を全部読んでおります」とは書きましたが、理解しているとは書いていないので、知識や智慧に対する話が、ここで出てくるのが、良く分からないのですが、何でしょうかね?

> 私はそんな貴方とは、もうブログ記事も読みたくも見たくも目にも触れたくも聞きたくもないし、付き合いもしたくはないので、一切を、フォロー登録も辞めた。

そもそも、こちらから、フォローなどをお願いした記憶も無いので、どうぞご自由に、というところです。むしろ、これまでフォローしていただいていたのであれば、そのことに感謝申し上げます。

> だから、私は、そなたとは一切、今後関わろうとも思わない。逃げただの、何にも知識が無いだの、これだから正宗信徒は等、この場に於いて、ブログ主故、何とでも言うのだろうが、私は言わば言え、の境地であり、忍辱の鎧を身にまとい、ケツをまくってやれ、尊い御教えを道元などに曲解されたのでは、我が宗では代々の御法主上人に顔向けできずに、叶わない。

これは、誰の、どの辺の話をしているのか分からないのですが、当方とは関係が無いところですし、他者に対してそこまで攻撃的な考えは持ちません。そもそも、そこまで貴殿の宗派の方に関心があるわけではありません。

まぁ、これまでの経験で、正宗系の方とは、まともな議論にならないことは知っていますが、貴殿までそうだとはまだ決めておりませんでした。結果として、そうなってしまいそうですが・・・

> そなたの愚見などには、決して迷わず、付き合わず、却って、私はそなたを、憐れんでいるのである。

憐れんでいるというポーズをすることで、貴殿のプライドを守っている感じでしょうか。貴殿の宗派の教えからすれば、拙僧のような者は謗法であり、折伏の対象なのではないでしょうか?それを勝手に止めても、宗派的には大丈夫なのでしょうか?その辺も、ちょっと心配にはなりました。とはいえ、去来自由が拙ブログのモットーなので、繰り返しますが、どうぞご自由に、ですね。

幾つか確認事項も書きましたが、おそらくは答えてはくれないのでしょう。それでも、一応までに応答はしておきました。
syousyu-wainai123753
何でも、質問等に答える、削除等にも応える、等々、丁寧でへりくだっているように見せて、実際は、日蓮正宗信徒に向かっては、罵詈雑言、悪口罵詈の限りに驚くばかり。慇懃無礼とは、この事だ。どうせ削除に応ずるならば、このブログ事体を、全て消えて無くなれば良いのに、と思わず思ってしまった位。

それにしても、返信が、大部遅れに遅れたようだね。これら駄文を書くのに、淫祀邪教を司る僧が考慮に考慮を重ねて、やっと書いた風だね。即断即決も出来ない。かなりナイーブな、事共があったのかね。まあ、昔の記事に反応した、私も悪かったが、余りに気を私自身、悪くしたもんでね。それは、私も謝する次第ではある。

ハッキリ言って、道元なんかに、「妙法蓮華経」をうんぬんして欲しくは無かったのが事実。それに晩年救われたのは、その以前の、禅宗のみすぼらしさ、救いが無かった事の証左証明。

あなたのは全て、知ったかぶりだ。私だって、日蓮大聖人の御書一巻くらい、既に読んでいる。正法眼蔵も、高校時代に、書店で岩波文庫のを買い求め、読んでいる。それらの本もすべて、謗法物として、お寺に預けた、捨てた。
貴方は、無知の知を知らない。知ったかぶりと冒頭で言ったが、その通り、自身の限られた知識を振りかざし、ちっとも知識や智慧に対する、謙虚さ、謙譲さが一切ない。皆、当たり前だと思っている。
私はそんな貴方とは、もうブログ記事も読みたくも見たくも目にも触れたくも聞きたくもないし、付き合いもしたくはないので、一切を、フォロー登録も辞めた。
だから、私は、そなたとは一切、今後関わろうとも思わない。逃げただの、何にも知識が無いだの、これだから正宗信徒は等、この場に於いて、ブログ主故、何とでも言うのだろうが、私は言わば言え、の境地であり、忍辱の鎧を身にまとい、ケツをまくってやれ、尊い御教えを道元などに曲解されたのでは、我が宗では代々の御法主上人に顔向けできずに、叶わない。そなたの愚見などには、決して迷わず、付き合わず、却って、私はそなたを、憐れんでいるのである。
ただ、毒鼓の縁で下種された事を願い、未来世で真実の法華経の種が花開く事を願い、ただ祈るのみ。
合掌。御報恩謝徳の御為に。南無妙法蓮華経。
tenjin95
@syousyu-wainai123753 > syousyu-wainai123753 さん

おぉ?!
久方ぶりに、興門派の方からのコメントを頂戴した感じがしますが、相変わらずのようで、興門派は自分で勉強をするという習慣が無いのかな?という印象ばかりが強くなります。

それで、「本門戒壇の三大秘法の戒壇の大御本尊様」というのは、あの例の、木に彫られたヤツですか?

https://genshu.nichiren.or.jp/genshu-web-tools/media.php?file=/media/shoho39-16.pdf&type=G&prt=4997

とりあえず、喩え、日蓮さんが自分で彫っていたとしても、丹霞の焼仏よろしく、物質信仰を持たない仏心宗的には全くの価値を見出せないので、それを持ち出されたところで、「だから何?」しか無いわけです。

禅宗の「不立文字」の件ですが、日蓮さんは「不立文字」よりも「教外別伝」の方を問題視した印象があるのですが、その辺は大丈夫ですかね。

それに、おたくの宗派で、余り「不立文字」を問題視しすぎると、例の「文底秘沈」問題に自分で踏み込むことになるから、「教外別伝」くらいにしておいた方が良いと思いますけど、どう思われますかね。

また、日蓮さんは、道元禅師の『正法眼蔵』はどうも読めなかったようですが、道元禅師は『正法眼蔵』「帰依仏法僧宝」巻で、『妙法蓮華経』を「諸経の大王」と最大限の賛辞をもって評価していたり、「教外別伝」を同「仏教」巻で批判していたりするのですが、この辺も、おそらくご存じないのでしょうね。

一応までに申し上げておきますが、当方、日蓮聖人が書かれたもの(残存する御真筆及び、写本のみ現存する遺文)を全部読んでおりますので、そのおつもりでお話しいただくと良いでしょうね。

だいたい、日蓮さんは禅宗の何も理解していないので、その人が語る禅宗批判は、我々には何も届きません。中国の禅宗では、禅宗こそが総合仏教だったのです(貴殿は、絶対にご存じないと思いますけどね)。

どちらにしても、先にいただいたコメント、当方としては既に「飽きて」おります。もうちょっと、色々と勉強し直してからコメントをされることをお勧めしますよ。
syousyu-wainai123753
天台宗は伝教大師最澄以後の愚僧の弟子たちにより、「真言宗化」「密教化」が進み、退廃し、堕落していった。これは伝教大師が、像法時代の方だったので、そこで築かれた戒壇も、権教の、迹門の戒壇であった。
それに対して、我が日興門流の日蓮正宗に伝わる、御本仏宗祖日蓮大聖人様御建立の、弘安二年十月十二日におしたための、本門戒壇の三大秘法の戒壇の大御本尊様こそが、この世に於いて、最も崇高で、万人が拝むべき本尊である。どんなに禅宗の者達が言い繕うと、「不立文字」を立てた以上、それら矛盾は、ひっくり返せない。文字によらず、といいながら、文献、経文を借りて来ては、典拠とする。しかも、禅宗は「禅天魔」と日蓮大聖人に喝破され呼ばれ、天台などは「去年の暦」を用いるようだ、と日蓮大聖人御書にてこき下ろされている。
決して、爾前権教の、そういった、禅宗、念仏宗、真言宗、律宗、それ以前の仏教教派、その後の新興宗教等々は、全くの邪師による、邪説を振りまく邪義邪法邪道に外ならず、邪淫に耽る不埒な者共である事は、論を待たない。
どんなに有難そうな事を言い、どんなに頭が良さそうな事を、小難しそうな知識を振りまこうが、邪は邪でしかなく、これもまた、論を待たずに論ずるに値しない。
四箇の格言「真言亡国・禅天魔・念仏無間・律国賊」を堅持して、折伏行に今日も活躍する教団は、「日蓮正宗」一宗のみに他ならない。
長文失礼。以上。よしなに。wainai
tenjin95
コメントありがとうございます
> 西山眞澄 さん



そうですね。天台宗系の諸宗派でも、『法華経』を重んじておられますね。今回挙げたようなお話は、いわゆる伝教大師以前の『法華経』信仰だということで、色々と見るべきものがあります。よくよく考えてみれば、真撰かは異論があるようですが、聖徳太子にも『法華経義疏』がありますし、日本に於ける『法華経』信仰にはまだまだみるべきものがございますね。
西山眞澄
お久し振りです
相変わらず、気の向くままに突然お邪魔します。法華経は本宗(天台真盛宗)の根本経典でもありますから師が語っていただくことは大変結構だとありがたく思います。記事中「法華経は功徳と罪悪とが強く・・・」の段落は同感です。私はこれが法華経の中身そのものだと考えます。言い換えればお釈迦様が私たちに最も伝えたかったことは過去・未来のことでなく、現世における「止悪修善」であって、それはある意味最高道徳でもあると思います。それをいかに修行僧や、一般人に伝えようかと説かれたものが法華経となって表現されたと思います。浅学菲才の輩ではありますが一言コメントさせていただきました。
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