つらつら日暮らし

「御戒壇巡り」の戒壇について

以前、当方自身も体験してきた「御戒壇巡り」について興味を懐いた。ただし、当方自身、日本の仏教に於ける戒律などを最近は研究しているので、その点から考えると、この場合の「戒壇」というのは、援用、或いは誤用なのではないか?と思ってしまったのである。

そこで、当方自身の疑問を解決するために、善光寺の公式サイトでの見解をまず確認してみたい。

巡る お戒壇巡り(善光寺)

上記の内容を、公式見解として受け取っておくと、ここでいう「お戒壇」というのは、「善光寺本堂の最奥に位置し、御本尊の真下を通る真っ暗な通路」とあるので、御本尊さまが安置されている場所(他の宗派なら内陣、壇なら須弥壇とかいう)の地下通路を指している言葉であることが分かる。

つまりは、受戒をする場所としての戒壇では無いことは明確である。そうなると、ここが何故、「お戒壇」と呼ばれるようになったのか、その経緯の方が余程気になる。それで、当方自身、直接の典拠を発見するには到っていない。また、これも良く知られていることだが、現在、「戒壇巡り」を行えるのは、この信州善光寺のみならず、全国に数十施設があるとされるので、由来がどこかも良く分からない。

そのため、果たして信州善光寺の『善光寺縁起』(4巻本、室町期成立?)だけで話を進めて良いかも分からないのだが、一応、同書中巻4に以下の一節を見出した。

 中比、念仏堂の四十八人、時衆、之れ在り。不律極まり無し。之に仍りて権別当、之を改易して、鎌倉極楽寺より、律僧浄行なるを請し、持律、之を行わしむ。
 或る時、念仏堂中、不思議井有り。此の井、即ち遠江国桜井池通云々。此の井より、一霊蛇出来して、僧を悩ます。此の律僧皆色を失し、魂消る。或る夜、夢の覚めるの間、瑠璃殿の御戸自から開き、中より老僧、濃墨染衣なる、御顔色少かに弊し給ひ、物思ふ姿なり。佐気高御声に衆僧に告げて云く、
  五十鈴川清き流はあらはれて
   我は濁れる水にやとらむ
 是の如く三遍打ち返して詠み給ふ。我れ、悪人を済度せんと思ふ。汝等の如き貴僧、佐有有と仰せらる。衆僧、夢中に申す様なり。佐は、吾等、此の寺に止住する事、御本意に背く哉と申す。如来打傾給へ。
 寺の貫主、衆僧諸共、異口同音に白して言はく、何様にも御意に随い奉るべし。
 其の時、弊れ給ひ御顔色、本の如く成り給ひしを見奉る。
 夢、覚め畢りて、即ち御詠歌に驚く。
 時衆、此の道場に還居せらる、云々。
    『善光寺縁起』巻4「如来御詠歌之事」、『大日本仏教全書』巻120、275頁上下段、原漢文


話の流れとしては、この縁起が書かれるよりも前のこと、本尊の念仏堂にいた48人の堂僧は、時衆(一般的には時宗と呼称されるが、古くは時衆)の僧達だったのだが、戒律を守ることが無かったため、権別当がこの者達を辞めさせ、鎌倉極楽寺から律僧で浄行なる者を呼んで、堂内では持律を行わせた。

ところが、念仏堂の中に不思議な井戸(下流は現在の静岡県西部桜井池[同県御前崎市の桜ヶ池?]に通じていたものとされる)があって、その中からヘビが出て来て、僧達は悩まされていたという。そうしたら、或る日の夢に、濃い墨染めの衣を着た老僧が出て来て、大きな声で和歌を詠んだ。「五十鈴川に清き流れが現れているが、私は濁った水にこそ宿る」というものであった。五十鈴川とはかの伊勢神宮の社域を流れる川のことであろうから、清き流れは神道の側にこそあるが、我(如来)は濁った水に住む、という意味であろう。

そして、この老僧は、私は悪人を救いたいと思っており、律僧に対しては、お好きになさい、と仰ったところで夢が覚めた。結果として、律僧は自分たちが念仏堂に居るのは、如来の本意では無いと思ったようで、更に貫主や大衆達も、如来の御意に随うのみだと告げ、結果として律僧達は退去し、時衆の僧達が戻ってきた、ということのようである。ここからはつまり、善光寺如来と持戒は、余り関係がない印象を得てしまう。

ところで、『善光寺縁起』には、『集註』が伝わっているのだが、上記一節への註記を見ると、幾つか興味深い差異を見出すことが出来る。

 人皇八十代高倉院御宇、治承元丁酉年、権別当検校善海曰く、夫れ当山は三国最第一の尊像鎮坐の霊場なり。是を以てか我が朝の大小神祇、毎日守護して懶ること無し。堂内の給仕人、不律の輩有りて相い交わる。恐らくは冥衆の照覧の憚り有り。
  不律、猶ほ不潔と言ふがごとし。
 自今以後、彼等を退去せしめ、持律僧を勤仕せしむべきなり。殊に内陳(陣の誤りか?)、女人を禁ずべし。而るに海師、両夜に同夢を感ず。いわゆる、殿内より八旬の彙僧出でて、託宣して曰く、
  極重の悪人、他の方便無し、
  唯だ弥陀を称えて、極楽に生ずることを得るのみ。
 同じく御詠歌に、
  伊勢之海清汀和左茂阿羅波阿礼、
  吾和濁礼留水ニ宿覧、
 其二、
  本余利茂塵仁交流我奈礼波、
  月之障和苦支加羅摩茲、
 如来の告勅斯の如し、此の故に夢覚めて而後、不律僧を許し、内陳に入れ、女人を禁ぜず。爾より以来、仏勅に由るが故に、月水守を為して、諸女人に授与し、不浄の起こるをして除かしむるなり。
    『善光寺縁起集註』巻6、『大日本仏教全書』巻120、352頁上下段、原漢文


まず、註記から理解できることは、先に上げた一件を、高倉天皇(在位:1168~1180)の時代、治承元年(1177)であるとしていることである。そうなると、ちょっと先ほどの記述とは齟齬を来すことになるだろう。まず、先の記述では、元々念仏堂にいたのは時衆(一遍上人の御同朋)だったわけで、当然に鎌倉時代になる。また、代わって招請されたのは鎌倉極楽寺の僧侶、つまりは忍性系の真言律宗だったと思われるのだが、こちらも当然に鎌倉時代になる。参考までに鎌倉極楽寺が現在地に移転されたのは、正元元年(1259)とする説があるという。

そうなると、当然に先の話とは時代が異なっているわけで、本来の原文であるはずの、『善光寺縁起』より、『集註』が古い話を伝えているのは大いに違和感が残るのだが、別系統の本が存在していた、ということなのかもしれないし、『縁起』本文を批判的に『集註』が扱っているということなのかもしれない。詳しいことは、『縁起』の書誌学的研究の成果を経ないと何とも言えない。

それから、先ほどの『縁起』では僧の持律・不律を問うのみであったが、『集註』では女人禁制の解除についても論じられている。よって、同じ話のはずなのに、2つの異なる話が伝わっているのである。また、この記事で最も問題にしたかった「戒壇」について、その直接の典拠は見出せなかったけれども、本尊が安置される内陣(上記文章では内陳)では持戒が問われたこともあり、転じてここを「戒壇」と見なしたのであれば、なるほど、その下を巡ることを「御戒壇巡り」と呼ばれる可能性はあるのかな?とか思った。もちろん、それは善光寺が由来であると仮定した上なので、他施設の事例が先行するのであれば、この説は破綻決定。

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