つらつら日暮らし

「第一義僧」のお話し

或る大乗経典を読んでいたら、「第一義僧」に関する話を見出したので、採り上げてみたい。

 復た次に、族姓子よ、四種の僧有り。何等をか四と為すや。
 第一義僧、浄僧、唖羊僧、無慚愧僧なり。
 云何をか第一義僧と名づくや。
 諸仏世尊、大菩薩摩訶薩、辟支仏、一切法に於いて悉く自在を得ん。阿羅漢、阿那含、斯陀含、須陀洹、是の七種の人、名づけて第一義僧と為す。
 諸もろの、在家に有りて法服無き者は、波羅提木叉戒を具受すること能わず。布薩・自恣、而して聖果を得るに入らず。聖果を得已りて亦た第一義僧と名づく。
    『大方広十輪経』巻5「衆善相品第七」、拙僧ヘタレ訓読


拙僧自身、こういう概念があること自体、これまで知らなかったのだが、これを読んでみると、僧侶の大きな区分けとして、四種類に分けており、その第一を「第一義僧」としている。ただ、順番というよりも、「第一義」に到った僧侶という意味であろうか?そうしてみると、阿毘達磨でも一部で用語が見られるが、やはり大乗経典が主である印象だ。

一つには第一義僧なり。いわゆる諸仏・聖僧、法の如く住す。覩見すべからず、捉持すべからず、破壊すべからず、焼害すること能うこと無く、思議すべからず、一切の衆生、良祐の福田なり。福田と為すと雖も、受取する所無く、諸功徳の法、常に変易せず。是の如くを名づけて第一義僧と為す。
    『大乗理趣六波羅蜜多経』、訓読は拙僧


こちらの場合、真実の三宝を示す際に、やはり「第一義僧」を示し、その意義を述べている。まずは、法のままにある諸仏・聖僧をもって「第一義僧」であるとし、その内容を示している。よって、部派仏教から、大乗仏教に展開していく間に、一部では「第一義僧」という概念が構築され、更には、「焼害すること能うこと無く」という見解からは、当時の仏教界に寄せられた弾圧なども想起させるのだが、その弾圧すら乗り越える存在としての「第一義僧」が見て取れる。

ところで、後者の見解も含めて、前者を見てみると、「一切法に於いて悉く自在を得ん」という言葉の通り、やはり法のままにある仏教者として位置付けられていることは明らかだが、一方で、「七種の人」については、在家者であることが明確に否定されている。つまり、在家者であり、法服(袈裟)を持たない人は、波羅提木叉戒(要するに比丘戒・声聞戒のことであろう)を得られないとし、当然に布薩や自恣も行えず、聖果を得ることも無いとしているのである。

つまりは、ここで大乗の菩薩も含めて、比丘戒を受け、布薩・自恣も行っている場合もあったということなのだろう。拙僧自身、大乗仏教の菩薩僧が、一体どういう修行をしていたのか?インドの文献を直接研究しているわけではないので、分からないことが多いのだが、漢訳仏典の学びを通して、その一部を見た次第である。

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