然れば即ち、
上智下愚を論ぜず、利人鈍者を簡ぶこと莫れ。
専一に功夫せば、正に是、弁道なり。
修証自ら染汚せず、趣向更に是、平常なる者なり。
凡そ夫、
自界他方、西天東地、等しく仏印を持し、一ら宗風を擅にす。
唯、打坐を務めて兀地に礙えらる。
万別千差と謂うと雖も、祗管参禅弁道す。
何ぞ自家の坐牀を抛却して、
謾らに他国の塵境に去来せん。
若し、一歩を錯れば、当面蹉過す。
古来より、上記引用文の最初の箇所をもって、まさに「普勧」の真実義を開陳されていると解されている。
・この段は的く普勧の意なり。 面山師『聞解』
・これ則ち普勧の誠意、涙実に痛腸を出ずるなり。 指月師『不能語』
特に、面山師は自らの見解を龍樹尊者『大智度論』巻83に見える「「世尊、この門、利根菩薩摩訶薩の能入す」。仏言わく、「鈍根菩薩も亦た、この門に入るべし」」などを引きながら傍証としている。つまり、専一なる修行こそが肝心であって、その時には、必ず弁道となるのだから、そもそもの学人としての能力などは、考慮する必要は無いのである。繰り返すが、道元禅師にとって、修証とは「自ら不染汚」である。よって、能力の差異などは、その染汚になってしまうといえるし、後の「趣向」の話も、その通りである。
「趣向」とは、「実践すること、趣くこと。特定の関心を志向すること」ということなのだが、道元禅師はその「趣向」が「平常」でなくてはならないという。このことについては、ちょうど前句である「不染汚」と関連させて、以下の文脈を見ていきたい。
不染汚とは、趣向なく、取舎なからんと、しひていとなみ、趣向にあらざらん処、つくろひするにはあらずなり。いかにも趣向せられず、取舎せられぬ不染汚の有なり。
『正法眼蔵』「唯仏与仏」巻
つまり、この文脈からすれば、趣向せられないところ、つまり、特定の志向の失われたところで行われるのが、不染汚の修証であるといえる。これが、無分別であるし、いわば、「平常」である。無分別とは、特定の価値に依存しないことを意味する。是非善悪の絶したところで、ただそれとしてそれを行うことであり、これを「絶対待」とはいう。この「絶対待」が理解されなければ、その後の文脈を会得できない。
その後の文脈について、「自界他方、西天東地、等しく仏印を持し、一ら宗風を擅にす」とは、あらゆる世界が、仏の悟りによって「刻印」されることを意味し、その時には、仏仏祖祖が嫡嫡相承してきた宗風を、ほしいままにすることが出来る。それは、宗風そのものになりきることをいう。その宗風そのもののなりきりを、「唯、打坐を務めて兀地に礙えらる」とはいい、兀地というのは、巌の如き、無情・無思慮・無分別のありさまであって、その状態にあることが、宗風そのものへのなりきりである。よって、これが宗風だという自覚がない。宗風だという自覚がないことは、宗風や坐禅へのこだわりがない。世間に於ける争いをすることがない。唯務打坐なのである。打坐へのこだわりがないということは、打坐しないことという風に捉える人もいるかもしれない、だが、それは前提条件が間違えている。本論はあくまでも、坐禅を行うことを前提にしている。その前提の上で、打坐にすら把われないのである。よって、「万別千差と謂うと雖も、祗管参禅弁道す」とはいう。千差万別なるこの世界の様相であっても、或いは才能の違いがあっても、唯務打坐なのである。
把われはないが、我はこれで良いと思うとき、「何ぞ自家の坐牀を抛却して、謾らに他国の塵境に去来せん」とはいう。もはや、他の修行の一切は不要となる。或いは教化も要らない。だが、一切の衆生が救われていないわけではない。坐禅人の実践による功徳は、必ず全ての人間が受けている。これを超えて、具体的な身と心の現象面で救済を求めるから、おかしな話となる。それは、政治や他のNPOや他の宗教の仕事である。坐禅人は、この世界の成り立つ、その前のところで一切を救っている。それが、「証上に万法あらしめ」(『弁道話』)である。このことを会得できずに、染汚・趣向してしまうような場合、「一歩を錯れば、当面蹉過す」となることだろう。
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